2008年12月12日金曜日

第13回「人生の冬に」 23章1-16節、24章14-33節

いよいよヨシュア記の学びも最後になりましたが、今日は晩年のヨシュアの姿から「人生の冬に」と題して、共に学びたいと思います。まだ若い(?)私がその問題について語るのも無理があるかもしれません。そこで「目には見えないけれども大切なこと」(渡辺和子)という本からもヒントを得て「老い」そのものについて一緒に考えたいと思います。クリスチャンとして、どう向き合うべきか。

「人生の秋」を迎えた時、ヨシュアはまだまだ力に溢れていました。主はそんなヨシュアにこう仰せられました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている(13:1)」と。人にはいろいろなタイプの人がいます。一定の年齢に達するとすぐに「隠居」を決め込んでしまう人。反対に「まだまだ現役で」とハツラツとしている人。現代人はとかく忙しく、本当の意味で主に仕えられるのは「定年後」であるのかもしれません。そう考えると、ヨシュアに対する主の言葉は「人生の秋」を迎えた現代人にも語られているのかもしれません。

しかし今日の箇所で、ヨシュアはさらに年を重ね「人生の冬」を迎えています。この時期になると、人はいろいろなものを手放さなければなりません。それまで築いてきた「仕事」「立場」「健康」「奉仕」など。イエス様は30代前半で十字架にかかられましたが、この「老い」についてよく理解しておられ、ペテロにこう教えられました。「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます(ヨハネ21:18)」と。

その時、私たちの「価値観」が明らかにされます。誰しも「老いる」のですが、誰もが「美しく老いる」わけではありません。ある人は仙崖和尚が言ったように「心が曲り、欲深くなり、愚痴っぽく」なります。しかしある人はヘルマン神父が言うように「まことの故郷へ向けて、この世の鎖から解放されていく」のです。「人生の冬」になるとその人の価値観が表ににじみ出てきます。目に見えるものではなく、永遠に心をとめる者は、「この世の鎖」から解放されていきます。しかしこの世に望みを置くものは、ますます鎖でがんじがらめになってしまうのです。

ヨシュアはどうだったでしょうか。若くて、力にあふれた青年ヨシュアも、この時、すでに110歳になっていました。当然、肉体の衰えは隠せなかったでしょう。しかし彼は、民全体の前で響き渡る声でもって、こう宣言したのです。「私と、私の家とは主に仕える(24:15)」と。もちろん、自分と自分の家族だけが、主に仕えれば良いと思っていたのではありません。まず自分と自分の家とが、主に仕えることによって、イスラエル全体にもそうであって欲しいと願っていたのでした。

その宣言の背後には、どれほどの祈りが積まれていたことでしょうか。ヘルマン神父は「神は最後に一番良い奉仕を残してくださる。それこそ祈り」と言いましたが、祈りこそ、一生続けられる、最も大切な奉仕です。祈りの奉仕とは、特別なことではありません。まずは「私と私の家」とが主に仕えることを、心の底から願い、祈るのです!またその家族を通して、恵みが、教会、地域、そして全世界へと広がっていくようにとも。大きな視野に立つ、最も具体的な祈りに力があるのです。

子育てに終わりがあっても、祈りに終わりはありません!家族が救われないのは「あなたの責任だ」と言うのではありません。それは神様の領域であって、私たちにはわからないことです。◆しかし私たちには、家族のために「真剣に祈り続ける義務と責任」があるのです!その責任を放棄してはいけません。祈りこそ生涯続く、最も大切な奉仕なのです。

年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、
後に来るすべての者に告げ知らせます。詩篇71篇18節



~~~付録~~~

「老人六歌仙」
仙崖(せんがい)和尚(江戸時代の禅僧)

しわがよる、ほくろができる、腰が曲がる、
頭がはげる、毛は白くなる。

手はふるう、足はよろつく、歯は抜ける、
耳は聞こえず、目はうとくなる。

身に合うは、頭巾(ずきん)、襟巻(えりまき)、杖、眼鏡、
湯たんぽ、温石(おんじゃく)、しびん、孫の手。

聞きたがる、死にともながる、淋しがる。
心はまがる、欲深くなる。

くどくなる、気短かになる、ぐちになる、
でしゃばりたがる、世話やきたがる。

またしても、同じはなしに孫ほめる、
達者自慢に、人をあなどる。



「年をとるすべ」
ヘルマン・ホイヴェルス神父による引用

この世で最上のわざとは何だろう

楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになうこと。

若者が元気いっぱいで
神の道を歩むのを見ても、
ねたまず、

人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり、
弱って、人のために役立たずとも
親切で、柔和であること。

老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、最後の磨きをかけよ。

まことのふるさとへ行くために、
魂をこの世に縛りつける鎖を
少しずつはずしていくのは、
まことにえらい仕事。

そして全てが取り去られても、
それを謙遜に承諾しよう。

神は最後に、
一番良い奉仕を残してくださる。
それこそ、祈り。
手は何もできなくとも
最後まで合掌はできる。
愛するすべての人の上に、
神の恵みを求めて。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に、神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

2008年11月27日木曜日

第12回「開拓者精神を忘れるな」17章14-18節

信仰に対してあまり理解を持っていない人と話していると、しばしば同じ誤解に気付きます。彼らは言います「信仰とは『弱い人』が持つもので『強い人』は自分の力で試練を乗り越えるものだ」「だから僕は僕の力で…。宗教は結構です」と。私は自分が「強い」と主張するつもりはありません。自分が弱いことは分かっています。しかしだからと言って、全部を「他人任せ」にしている「弱虫」や「怠け者」ではありません。本当の信仰とは、一体どのようなものなのでしょう?

そもそもヨシュア記はこのような主の言葉で幕を開けていました。「あなたの足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通りあなたに与えている(1:3)」と。ともすると、信仰は「現実逃避」のように思われがちですが、本当の信仰とはここにもあるとおり、主の約束を堅く信じながらも、自分の足の裏でしっかりと地面をとらえ、一歩一歩、前進することなのです。「主に信頼」することと「主に依存」することは違います。「依存」は自分の努力を放棄しますが、主に「信頼」する者は、どんな試練の中でも失望することがなく、立ち止まることもなく、7回倒されても、8回起き上がり、前に向かって進んで行くことができるのです。

未熟な信仰は「棚ぼた」ばかりを期待し、与えられたものに感謝がありません。ヨセフ族もそうだったのかもしれません。彼らは、ただ恵みによって、イスラエルの中でも特に「数の多い、大きな力を持つ民(17)」へと成長しました。そしてこの時も、他の部族よりも多い、約2倍の領地が分割されました。しかし彼らは「なぜ、ただ一つの割り当て地しか…」と不平を漏らし、その領地に対しても「山地が多く、鉄の戦車を持っているカナン人がまだ残っている(16)」と不平を漏らしたのです…。彼らをそこまで大きくしたのは誰でしょうか?その領地を与えてくださったのは誰でしょうか?主ではありませんか!なのに彼らは、自分たちの勢力を誇り、自分たちはもっともらって当然だと言わんばかりに不平を漏らしたのです。

それに対し、成熟した信仰は「時間をかけ、主とともに造り上げること」を喜びとします。ヨシュアには、そのことがよく分かっていました。だから彼はヨセフ族に対し「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは森であっても、それを切り開いて、あなたのものとしなければならない」(17-18)と答えたのです。主は必要な「力」と「勇気」を与えられます。私たちは、自分の「手」と「足」を用いて、行くべき道を「切り開いて」行かなくてはなりません。何の努力もせず、僅かなもので「満足しなさい(ヘブ13:5)」と聖書は教えているのではありません。最善を尽くした結果、与えられた物には満足しなさい、と教えられているのです。

クリスチャンの人生は「生涯冒険」です。私が卒業した高校の校訓に「開拓者精神(フロンティア・スピリット)を忘れるな」とありました。でも実はクリスチャンこそ、このスピリットを忘れてはいけないのだと思います。棚から牡丹餅信仰ではなく、主とともに、時間をかけてでも、新たな領域を一歩一歩「切り開いて」いくことに、信仰の醍醐味があります。目の前には強大な敵が立ちはだかっているかもしれません。エリコの壁が存在するかもしれません。しかし老いも若きも「主を待ち望む者は新しく力を得、走ってもたゆまず歩いても疲れない(イザ40:31)」のです!

あなたは主に、大いなることを期待していますか?ヴィジョンに向かって一歩一歩前進していますか?このスピリットをなくすとき私たちの心(教会)には不平不満が湧き上がってきます。いま一度立ち上がり、主とともに、新たな領地を開拓しようではありませんか!

ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。
「私を大いに祝福し、
私の地境を広げてくださいますように。
御手が私とともにあり、
わざわいから遠ざけて
私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」
そこで神は彼の願ったことをかなえられた。
Ⅰ歴代誌4章10節

2008年11月20日木曜日

第11回「ギブオンへの憐れみ」10章1-14節

私たちは、ヨシュア記を読み進めていますが、ヨシュア記を読んでいると、どうしても神様の「愛」より「義」のご性質の方が前面に出ているように感じます。特に今日読んだ10章から12章までは、なんとも血なまぐさい戦いの記録が続いているのです。しかしそういった個所の中にも、よく読んでみると、神様の深い「愛」と「憐れみ」がにじみ出ているのです。いったいどういうことでしょうか?

前回学んだように、ギブオンは、イスラエルを騙しました。今日の箇所では、そのギブオンが窮地に陥っています。何と同じエモリ人仲間の5人の王が立ち上がり、ギブオンに対して陣を敷き、攻め上ってきたのです(1‐5)。しかし不思議ではないでしょうか?なぜ彼らは、彼らにとっての侵略者であるイスラエルにではなく、ギブオンに対して戦いを挑んで来たのでしょうか。きっとそこには「イスラエルに対する恐れ」と「裏切り者」に対する憤りが、複雑に絡まっていたのでしょう。

ギブオンは、イスラエルに助けを求めこう言いました。「あなたのしもべどもからあなたの手を引かないで、早く、私たちのところに上って来て私たちを救い、助けてください。山地に住むエモリ人の王たちがみな集まって、私たちに向かっているからです(6)」と。あなただったらどうしますか?盟約を結んでいるとはいえ自分を騙した相手です。そんな人のために命の危険を冒してまで、助けようと思うでしょうか?ところがヨシュアは、すぐに勇士を引き連れて向かったのです。

ヨシュアはただ主の言葉に従ったのです。ヨシュアは行動に先んじて祈りのうちに、こんな主の言葉を聞いていたのでした。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない(8)」と。だからその言葉に従って、ギルガルに上って行ったのです。そして実際に主は、自ら敵をかき乱し(10)、雹を降らせ(11)、不思議な方法で日を延ばし(13)、イスラエルとともに戦われたのです。

いったいなぜでしょうか?それはすべて「契約」のゆえです。確かに彼らはイスラエルをだまして盟約を結びました。しかしそれさえも「主にかけて(9:19)」誓われたものなのです。主はその誓いをも覚えておられ、ギブオンを助けられたのです。14節には「主がイスラエルのために戦ったからである」とありますが、その「イスラエル」の中には、もう既に「ギブオン」も加えられているのです!

私たちも同じではないでしょうか?全く相応しくない者であるのに、一方的な愛と憐れみによって、十字架により「契約」が結ばれました。その契約はいつまでも変わることがありません。聖書にはこうあります「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに今はあわれみを受けた者です(Ⅰペテロ2:10)」と。だから私たちも今は、ギブオンと同じように、主に助けを求めるならば、主ご自身が守ってくださるのです。

あなたも人生の方向転換をして、主に向き直る時、今までの仲間がそれを「裏切り」と受け取り、必死に抵抗するかもしれません。表だった迫害ではなくても、信仰にたいする無理解や、辱めるような言葉があるかもしれません。また今までの仲間と、自然に距離ができてしまうこともあるかもしれません。◆もしそうであっても驚いてはいけません。なぜならあなたはもう既に「光の子ども」であり「御国の民」だからです。違っていても当然なのです。そして恐れる必要はありません。主が、あなたのために戦われるのですから。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41章10節

2008年11月13日木曜日

第10回「立てた誓を変えない」9章1-27節

かつてカナンの王たちはイスラエルがエリコに勝利したと聞くと「心がしなえて勇気が無くなって(5:1)」しまいました。しかし彼らはもしかしたら、イスラエルが一度でもアイに敗北したことを聞いて、勇気を取り戻したのかもしれません、彼らは連合軍を組んでイスラエルと戦おうとしました(1-2)。しかしその中で、イスラエルとの戦いを何とか回避し和平の道を探るものもありました。それがギブオンです。彼らはいったいどのようにしてイスラエルに近付いたのでしょう?

それは変装によってでした(4)。彼らはいかにも長旅をしてきたように、古びた服を着て、乾いたパンを持ってきたのです(5)。そしてこう言いました。「私たちは遠い国から来ました。ですから今私たちと盟約を結んでください(6)」と。最初イエラエルの人々は慎重に聞いていました(7)。しかし彼らの非常に謙遜な態度と、もっともらしい作り話によって騙されてしまいました。その軽はずみな判断の原因は、彼らが「主の指示を仰がなかった(14)」ことにありました。

イスラエルが騙されたことに気がついたのは、その三日後でした(16)。当然、会衆は「何で和を講じたのか」と族長たちに不平を鳴らしました(18)。この時、民がヨシュアにではなく、族長たちに不平を鳴らしたのは不思議ですが、おそらく「族長主導」だったのでしょう。その不平に対し、族長たちは「いったん主にかけて誓ったことは撤回できない(19)」と答えました。それは正しい判断でした。「損になっても、立てた誓を変えない」というのが主の民の生き方でした。

とはいえ、そもそも盟約を結んだことは間違いでした。主はかつてモーセを通して、明確に「あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない(申7:2)」と命じていました。いくら騙されたとはいえ、イスラエルはこの主の命令に背いたのです!しかも彼らは「イスラエルの神、主にかけて誓った(19)」のです。ろくに確かめもしないで、主の指示も仰がず、自分勝手に「主の御名によって」誓ったのです。この背きの罪の結果はずっと後に、思わぬ形で、刈り取らなければなりませんでした(Ⅱサム21章)。

イエス様は「決して誓ってはいけません」と教えられました。特に「天を指して」誓ってはいけないと(マタ5章)。なぜ私たちは天を指して誓いたくなるのでしょう?それは人というものがいかに不確かで、罪深いかを知っているからです。だから「絶対的なものを指して」「言葉に拘束力を持たせたくなる」のです。もし全ての人が本当に「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言える社会なら「誓約」そのものが必要なくなります。イエス様の基準は本来それほど高いのです。

しかし現実にこの世には罪が存在します。そして罪ある者同士が大事な約束をする際には「誓約」が必要となります。ある時はイスラエルのように騙されてしまうことがあるかもしれません。でも私たちは、騙されることはあっても、決して人を騙してはいけないし、契約を結んだ後に、それが自分の損になっても、自分勝手に変えてはいけないのです。大切なのは、軽率に誓わないこと。どうしても誓わなければいけない時には「主の指示をよく仰ぎ」「必ず果たす」ことなのです。

ギブオンがその後どうなったかご存知でしょうか?彼らは最初、ヨシュアが言ったように、「奴隷の身分」とされました(23)。しかしバビロン捕囚以後は、イスラエルの民に完全に組み入れられたのです(ネヘ7:25)!◆彼らがイスラエルを騙したことは、確かに悪い事でした。だから彼らはその実を刈り取りました。しかし彼らは、イスラエルの主の偉大さを畏れたからこそ、イスラエルと戦わず和平の道を探ったのです(24)。主はそのギブオンの信仰を見て、ラハブと同様に憐れみをかけ、ご自分の民に加えられたのです。

主よ。
だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
それは、損になっても、
立てた誓いは変えない人。
(詩篇15篇1,4節 抜粋)

2008年11月3日月曜日

第9回「嬉しい時の神頼み」 8章30-35節

前回、前々回と、油断によって大きな敗北を帰した二つの民族を見てきました。ひとつはイスラエルで、ひとつはアイです。彼らはともに敵であったにもかかわらず奇妙な共通点を持っていました。それは、ともに大勝利の後に、惨敗をしてしまったという点です。前回私たちはこう学びました。「失敗や敗北は誰にでもあるものです。私たちは完全無欠の神ではないのですから…。大切なのは『その後』です」と。イスラエルの民は、その苦い経験から何を学んだのでしょうか?

それは喜びの日に「祭壇」を築き、いけにえをささげるということです。民数記にもこうあります。「またあなたがたの喜びの日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる(10:10)」。ヨルダン渡河の後には石塚を築き(4:9)、エリコとの決戦の前には主の将の前にひざまずき(5:15)、そうして主を覚えてきたのに、エリコとの決戦の後には、特に主の恵みを覚えることも何もなかったのです。

私たちも同じようなことがないでしょうか。新約聖書にはツァラアト(らい病)をいやされた10人が登場しますが(ルカ17:11-19)、彼らの中でイエス様に感謝するために戻ってきたのはたった1名のみでした。私たちも似ています。困っているときには必死に主にすがりつくのですが、問題が解決すると、すぐにその恩を忘れてしまい、ひどい場合には「自分の力で解決した」と勘違いしてしまうのです。そして「慢心」と「油断」が湧き上がり、次の戦いに敗北してしまうのです。

三浦綾子さんの「嬉しい時の神頼み」という言葉は印象的です。私たちを敗北へと導くのはなにも「試練」や「迫害」ばかりではありません。もっと恐ろしいのは「成功」や「名声」ではないでしょうか。それらによって私たちは、生活の中で主を覚えることを忘れ、浮足立ち、霊的な感性を失ってしまうのです。そうならないためにも、「喜びの日」に、しっかり主を覚え、感謝することが大切なのです。

では生活の中で「いけにえをささげる」とはどういうことでしょうか。「いけにえ」には物質的なものと霊的なものがあります。その両方に共通しているのは「痛みが伴う」ということです。現代人は「形」を軽んじる傾向がありますが、それにより祝福を失っているのは、私たち自身なのです。特別な恵みを受けたら「形(物質)」でも感謝を表明するというのは信仰の基本です。アカンはそれが出来ませんでした。彼は主に感謝を表すどころか、惜しみ、主のものを盗んでしまったのです。

しかしより大切なのは「霊的ないけにえ」です。詩篇にはこうあります。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません(51:17)」と。言ってみれば「霊的な祭壇」とは御言葉を中心とした生活のことです。そしてその上に捧げる「霊的ないけにえ」とは、御言葉から来るところの「悔い改め」なのです。ヨシュアは喜びの日に「律法の言葉をことごとく読み上げ(34)」ました。そして民は罪を示され「アーメン」と悔い改めたのです。

喜びの日にどう過ごすか、そこに信仰が現れます。あなたは生活の中で恵みを経験したり、祈りが聞かれたりする時どのように過ごしていますか?あたかも当然のように、やがて忘れてしまいますか?それとも恵みを、主の前に覚える機会をちゃんと持っているでしょうか?◆「嬉しい時の神頼み」ぜひ実践したいものです。普段から御言葉を中心とした生活を送り、霊的・物質的ないけにえを主に捧げていく、目には見えませんがその積み重ねが、あなたの信仰を強くし、次の決戦の時にも、勝利をおさめることができるのです。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、
この外国人のほかには、だれもいないのか。
(ルカ17章17-18節)

2008年10月25日土曜日

第8回「勝利の秘訣」8章1-29節

前回の箇所で、屈辱的な敗北を帰してしまったイスラエル、失敗や敗北は誰にでもあるものです。私たちは完全無欠の神ではないのですから…。大切なのは「その後」です。ある人は一度つまずくとずるずると落ちてしまい、なかなか這い上がってくることができません。でもある人はしばらくの間、苦しんでも、また這い上がり勝利するのです。その違いは、いったいどこから来るのでしょうか?

敗北が勝利に変えられる、その第一歩は「悔い改め」です。徹底的な「悔い改め」なくして「新たな一歩」もありません。イスラエルは、アカンを民の中から除きました。それは、すべての責任をアカンに背負わせたということではなく、彼ら自身もまた、徹底的な悔い改めをしたということです。悔い改めとは「自分の心の中からもアカンを取り除くこと」です。誰の心の中にもアカンをいるのですから。

その上で主はヨシュアにもう一度語られました。「恐れてはならない。おののいてはならない(1)」と。それはヨシュアがモーセの後継者に任命された直後、主が語られたのと同じ言葉でした。私たちの信仰の焦点がズレてしまうとき、私たちは、畏れるべきお方を畏れることができず、恐れなくてもよいものを恐れてしまうのです。もしかしたらヨシュアもそんな状態だったのかもしれません(7:7)。そこで主はこう語ることによって、彼に「初心」と「信仰」を取り戻させたのです。

今回の勝利には大きく三つの要因がありました。第一に彼らが「戦う民全部を連れてアイに攻め上った(1)」ことです。前回は「2~3千人ぐらい上らせれば楽勝」という雰囲気がありましたが(7:3)今回は一切の油断なく最初から全力で攻め上りました。第二に「最後まで伸ばした槍を引っ込めなかった(26)」ことです。それは「わたしがアイをあなたの手に渡すから(18)」と言われた、主の言葉に踏みとどまることを意味していました。最初から最後まで全く隙がありませんでした。

そして最後に「主への従順」です。いっけん今回の戦いは、エリコの場合とは違うように思えます。エリコの時は城壁の周りを沈黙のうちに七日間回るという、それこそ100パーセントの従順によって勝ち取った勝利でしたが、アイの場合は、町の背後に伏兵をしのばせるという「人間的な策略」に勝利したようにも見えるからです。しかし決してそんなことはありません!聖書を読めばわかるように、これはヨシュアの知恵ではなく、100パーセント神様からの知恵でした(1‐2)。イスラエルはただそれに100パーセント従ったので、勝利することができたのです。

一方、前回の愚かさは、今回のアイに見られます。アイの王は前回の勝利に酔いしれていました。そしてイスラエル軍が攻めてくると聞いても、自分たちの優勢を信じて疑わなかったのです。おそらく本当に「(イスラエルは)我々の前から逃げていく、前と同じことだ(6)」と信じていたのでしょう。しかし、その油断が命取りとなりました。アイの町はイスラエルの伏兵に襲われ、気づいた時には、煙が天まで上っていたのです(20)。逃げ場を失った民は全滅させられてしまいました。

こうして見てくると、勝利を阻むのは「油断」であることがわかります。世の中においてもそうですが、信仰の世界においても「昨日の勝者が、今日の敗者(失格者)」ということはあるのです。◆最後に「勝利者」と呼ばれるのは誰でしょう。それは誰にも分かりません。◆ただ言えるのは、ひたすら主を畏れ、最後の最後までヨシュアが槍の手を引っ込めなかったように、祈りの手を下さなかった者、その者が勝利者だということです。過去の勝利に酔いしれて、ふと振り返ったら煙が上っていた…、そんなことのないように。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。
(Ⅰコリント9章27節)

2008年10月15日水曜日

第7回「罪と恵みの感染力」 7章1-26節

前回の箇所は、イスラエルの圧倒的な勝利で幕を閉じました。しかし、前回の箇所には、もう一つ重要なテーマがありました。それは「聖絶」です。主はこう言われました。「あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものを取って、イスラエルに災いをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない(18-19)」と。さてこの聖絶をめぐって、何が起こるのでしょうか?

今日の箇所でイスラエルは小国アイに敗北してしまいます。あの要塞都市エリコに勝利したイスラエルが、比べ物にならないほど小さなアイに完敗してしまったのです。しかもその負け方がいかにも情けなかった。聖書には「アイの民の前から逃げ(4)」「民の心はしなえ水のようになった(5)」とあります。まるでクマに遭遇した子犬が腰を抜かしてしまったようです。敗因は何だったのでしょうか?

一つはイスラエルの油断でしょう。日本のことわざにも「勝って兜(かぶと)の緒(お)をしめよ」とあります。本来ならば大勝利の後ほど気持ちを引き締めて、小さな戦いにも全力で立ち向かわなければいけなかったのです。しかし偵察隊は「2~3000人ぐらいで上れば十分でしょう。民を全部やって骨折らせるようなことはしないでください(3)」と進言したのです。そもそもそれが間違いの元でした。

人からのアドバイスは、時にいい加減なものです。かつてカナンを偵察した斥候もそうでした。彼らはカナンを過度に恐れ「私たちは攻めのぼれない。(敵の前で)自分たちがイナゴのように見えた(民13:31~33)」と民に悪く言いふらしました。そしてその時も、民の心はくじけて「水のように」なってしまいました。人の言葉にふりまわされてはいけません。なぜなら彼らは「恐れなくてもよいものを、過度に恐れさせ」「本当に恐れなければいけない時に、油断させる」からです。

しかし今回の最大の原因は「罪」にありました。アカンは本来「聖絶」すべき「外套」を自分のものとし、「聖別」すべき「銀」や「金」を自分の家に隠し持っていたのです。きっとそれらを見ているうちに、どうしても欲しくなり、ついつい取ってしまったのでしょう(創3:5)。でもそれは立派な「罪」でした。そしてその代償は高く、彼の罪により、全イスラエルが甚大な被害をも被ってしまったのです。

あなたも「聖絶」「聖別」すべきものをもったいないと思っていないでしょうか。本来捨てるべき「古い習慣」や「悪い考え」「物」「偶像」などを捨てきれずにいるということはないでしょうか?同様に本来、主に献げるべき「什一献金」を惜しんで手元にとっておくことはないでしょうか?それもまた主の前には立派な盗みなのです。それにより、あなたも、あなたの属する共同体(家族や教会)も祝福を失ってしまいます。得をしようと思ったのに、実は更なる損を招いてしまうのです。

信仰を個人主義的に理解してはいないでしょうか?あなたの罪は、あなただけの問題ではありません。あなたの不従順と自己中心が、どれだけ、あなたの周りの人々にも悪い影響を与えていることでしょうか?◆それと同様に、あなたの従順と自己犠牲は、あなた自身はもちろんのこと、あなたの周りの人々にとっても大きな霊的祝福となっているのです。そして聖書の原則によれば「罪と死」よりも「恵みといのち」の感染力の方が強いのです!

また、賜物には、
罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。
さばきの場合は、
一つの違反のために罪に定められたのですが、
恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

もしひとりの違反により、
ひとりによって死が支配するようになったとすれば、
なおさらのこと、
恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、
ひとりのイエス・キリストにより、
いのちにあって支配するのです。
(ローマ5章16-17節)

2008年10月14日火曜日

第6回 「エリコ陥落」 6章1-27節

今回の箇所は、いよいよ要塞都市エリコの陥落の箇所です。これによって、本格的なカナン征服の戦いの火ぶたが切って落とされます。その際の契約の民であるイスラエルの戦い方は、非常にユニークなものでした。なぜ主は、そのような方法をとられたのでしょうか?そこに秘められた意味は一体何なのでしょうか?

毎日一周、沈黙のうちに城壁の周りを行進し、七日目には七周せよ、それが主の命令でした。行列の先頭には武装した者たちがいましたが特に何をするわけでもなく、ただ契約の箱の前を進んでいる祭司たちが、時折、角笛を吹きならすぐらいでした。そんな行進に何の意味があるのでしょう?見た目には、まったくナンセンスです。もしも城壁の上から矢でも射られたら、どうなってしまうのでしょうか?

しかしそれが彼らにとって最も大切な訓練だったのです。荒野において彼らの親は、度々ひどく神様とモーセに不平を洩らし(民11:1)、何度も痛い思いをしながら、それでもつぶやくことをやめず、ついには約束の地カナンに入れなくなってしまいました(民14:30)。彼らに限らず人間にとって一番難しいのは、自分の舌を制することです(ヤコ3:8)。その子の世代までもが、同じ過ちを犯さないためにも、彼らは黙って主を待ち、主に信頼することを、学ばなければならなかったのです。

それは簡単なことではありません。「負け犬ほど良く吠える」と言いますが、私たちは「恐れ」を感じるときほど「声が大きく」「多弁に」なってしまうものです。でも主は「あなたの道をわたしにゆだねよ。わたしに信頼せよ。わたしが成し遂げる。わたしの前に静まり、耐え忍んでわたしを待て(詩37:5,7)」と言われるのです。彼らの内にも「こんなことをして何になる」との疑問が湧いてきたことでしょう。しかし彼らはその疑問を「祈り」に変え、黙々と行進を続けたのです。

七日目、角笛が鳴り響き、民が「時の声」をあげた時、城壁は崩れ去りました。まさに「権力によらず、能力によらず、神の霊によって(ゼカ4:6)」の勝利です。そのあり様を見て一番驚いたのは、彼ら自身であったでしょう。そして彼らは、町に攻め入り「男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した(21)」のです。ただし一つだけ例外がありました。それは、あのイスラエルの斥候をかくまった、ラハブとその家族です。彼らだけは救われたのです。

「聖絶」は、倫理的にではく、霊的・終末的に解釈されるべきです。世の終わりのラッパが鳴り渡る時、この世のすべてのものは「聖絶」されます。ただし例外があります。それは生前にイエス様の血潮によって罪赦され、霊的なイスラエルに加えられていた「選びの民(マタイ24:31)」です。彼らは、その滅びから免れて、永遠の安息に入るのです。しかし、その他のものは、永遠の炎に焼かれるのです(24)。

あなたはもう罪赦され、霊的なイスラエルに加えられているでしょうか?ラッパの音が鳴り響いたら、あなたはラハブとその家族のように救い出される確信があるでしょうか?◆それと同時に、私たちの周りには、まるでエリコのように心の堅く閉ざし、拒絶という城壁を張り巡らせている人々がいます。彼らのために私たちができることはなんでしょうか?◆多弁に福音を語っても恐らく逆効果でしょう。そんな時は謙遜に愛をもって祈り続けるしかありません。途中こんなことをしていても意味がないと感じることがあるかもしれません。それでも忍耐強く祈り続けるのです。時が満ちると必ず城壁は崩れます。その時、一番驚くのはあなた自身でしょう。あっと驚くような主の御業が起こるのですから!

信仰によって、
人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、
その城壁はくずれ落ちました。
信仰によって、
遊女ラハブは、偵察に来た人たちを
穏やかに受け入れたので、
不従順な人たちといっしょに
滅びることを免れました。
(へブル11章30-31節)

第5回 「戦いの直前に」 5章1-15節

今回はエリコの戦の直前の箇所です。このような時に、イスラエルは「割礼」と「過越しの祝い」を行いました。一つ間違えば非常に危険です。傷が痛んでいるところを奇襲されてしまうかもしれません。祝っている隙に、攻め込まれてしまうかもしれません。なぜ、この二つがそれほど重要だったのでしょうか…?

主はヨシュアに、「もう一度、イスラエルに割礼をせよ」と命じられました。彼らは、エジプトを出て以来40年以上も割礼を受けていなかったのです。その40年の間に、出エジプト第一世代は、自らの不信のために死に絶え、荒野で生まれた子供達だけが生き残っていたのです(4-6)。おそらくヨシュアとカレブ以外の者は、誰も割礼を受けていなかったことのでしょう。彼らは大切な何かを失っていました。

それはイスラエル民族のアイデンティティーです。アブラハム以来、イスラエルに属する男子は、奴隷も在留異国人も皆、この割礼を受けなければなりませんでした(創世記17:10)。それによって彼らは、自分達こそがアブラハムに与えられた契約の「正当な継承者」であることを確認していたのです。その契約とは「約束の地カナンにおいて、自分達の子孫は星の数ほどに増え広がる」ことでした。

またこの割礼は「過去との決別」を意味していました。彼らは「割礼」によって忌まわしい過去と決別し(9)、カナンの地でとれた麦で作った「種無しパン」を食べ、もう後ろを振り向かない、この地で生きていくと覚悟を決めたのです。その翌日からマナが止みました。割礼が文字通り新しい時代の「皮切り」となったのです。

私たちにとっての「割礼」とは何でしょうか?それは「洗礼」のことです。単なる儀式としての洗礼ではなく、古い自分をことごとく十字架につけ、キリストの復活の命に預かったしるしとしての洗礼が大切なのです。これを「新しい創造」「新生」と呼びます。この新生を経験するためには、古い自分をしっかり切り捨てなければいけないのです。もし中途半端に切り落とすなら、余計に傷口が傷むのです(8)。

また私たちにとっての「過ぎ越し」とは何でしょうか?それは「聖餐式」です。私達は聖餐式で、キリストのからだを食し、キリストの血を飲みます。それによって、十字架の恵みにより救われ「永遠のいのち(新しい契約)」の継承者とされていることを感謝するのです。と同時に、聖餐式において私達は「もう後ろを振り向かない」「死に至るまでも、キリストに忠実であること」を誓っているのです。反対に言えば、その覚悟が無い者は、本来、聖餐式にはふさわしくないのです。

最後に、大きな戦いの前にこそ「砕かれ」「へりくだる」必要があります。ヨシュアは主の将の前で、はきものを脱いでひれ伏しました。それにより彼は、この戦いを勝利に導くのは、自分の能力や力ではなく、イスラエルの軍勢でもなく、ただ主ご自身であることを再確認するのでした。自分を何者であるかのように思い違いをしてはいけません、聖い主の前に出てひれ伏す者に、主の目は注がれるのです!

あなたは、もう古い自分に別れを告げましたか?古い価値観や、昔の生き方を捨てて、十字架を負い、ひたすらキリストについていっているでしょうか?◇しかし、私たちを勝利に導くのは、私達の熱心でも、献身でも、覚悟でもないのです。ただ万軍の主が、私たちの前を進み、私たちを勝利へと導いてくださるのです。◇この方を畏れ、この方の前に身を低くすることが、人生で一番大切なことです。

「あなたの足のはきものを脱げ。
 あなたの立っている場所は聖なる所である。」
 ヨシュア5章15節

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
 その恵みを待ち望む者に。」
 詩篇33章16-17節

2008年9月13日土曜日

第4回 「記念の石」 4章1-24節

ヨルダン渡河の出来事は、二章にも渡って大変細かく記録されています。そのことからも、この事実が、今後のイスラエルにとって、いかに重要であるかが伺えます。またその描写は大変印象的です。川の水がせき止められたのは、祭司の足が、ヨルダン川に浸ったその時でした(3:15)。そしてその祭司の足の裏が、かわいた地に上がった時(4:18)、ヨルダン川の水は、怒涛のごとく押し寄せたのです。

この奇跡には二つの重要な意味がありました。それはまず、イスラエルの民だけでなく「地のすべての民が、主の御手は強いことを知り、主を畏れるため(24)」でした。また同時に、全イスラエルが見ている前でこれを行われることにより、彼らがモーセを恐れたようにヨシュアも一生の間恐れるため(14)でした。「神を恐れ」「指導者を尊ぶ」、この二つを確認することにより、神様はイスラエルの民がカナンに入る前に、今一度、この国の土台を、その基礎から固められたのです。

それは、一過性のものであってはいけませんでした。人間というのは、主の圧倒的な恵みを経験しても、放っておけばまたすぐに忘れてしまうものなのです。荒野でのイスラエルの民がそのことを証明しています。そこで主は、彼らが子々孫々に渡るまで、このヨルダンの奇跡を忘れないために、イスラエルの中から12人を選び出し、川の真中にあった12の石を集めさせ、永遠の記念碑を築いたのです。

この12人全員が力を合わせたというのが、大切なのです。「主を恐れ、主に立てられた指導者を尊ぶこと」が国の土台でありました。しかしその土台の上に、どのような「国(共同体)」を築いていくかは、イスラエル12部族の共同作業なのです。自分勝手にならず、私利私欲を求めず、互いにいたわり合い、愛の絆で結び合わされていくときに、本当に立派な国が出来上がり、その栄光が輝くのです。

教会も同じです。「神を恐れ」と「御言葉の器を尊ぶことこと」は教会の基礎です。でももっと大切な「土台」「礎石」があります。それはイエス・キリストご自身です。人はこのお方を捨て十字架につけて殺しました。しかしこの赤く染まった十字架こそ、私たちが永遠に語り継ぐべき「恵みの記念碑」なのです。私達はこのお方の恵みの御手によって、ヨルダンという、罪の濁流から救い出されました!

この恵みを土台として、私達は、霊的な家(共同体)を立て上げます。12部族が協力して、石を積み上げ、記念碑を築いたように、私たちも、自分自身を救い出された一つの石として差出し、共に立て上げられ、一つの聖なる共同体(教会)を築き上げていくのです!自分なんか・・・と思う人がいるかもしれません。しかし、あなたがいなくなったら、その家は崩れてしまうのです。あなたが必要なのです。

あなたは神の家の中でどんな石でしょか?人目につく大理石の床でしょうか? 雨風にさらされる壁の石でしょうか?それとも太陽に熱せられる屋根の石でしょうか?◆働きには違いがあります。それでよいのです。みなが同じではありません。床も屋根も壁もみんな大切です。しかしイエス様は地中の「礎石」となられたことを忘れてはいけません。この方の愛がバラバラな石を一つにするのです。

キリスト・イエスご自身(こそ)がその礎石です。
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、
御霊によって神の御住まいとなるのです。
(エペソ2章20,22節 抜粋)

2008年9月2日火曜日

第3回「ヨルダン渡河」 ヨシュア3章1-17節

今日の箇所は、イスラエルの民がいよいよカナンへと入って行く記念すべき箇所です。全ての準備は整えられ、エリコの敵は恐れおののいていました。しかし目の前には、一つの障害が横たわっていました。それは増水したヨルダン川でした。この濁流を渡ることは、彼らにとって、大切な信仰のレッスンを含んでいました。

まず主は、イスラエルが「契約の箱の後ろを進まなければならない」と命じられました。なぜでしょうか?それは彼らが「今まで通ったことのない道(4)」を行こうとしていたからです。もし彼らがその道を自分勝手に進むなら、どんなに綿密に計画えおたて、気候や水深を調べたとしても、彼らは失敗してしまったでしょう。彼らはカナンという全く違った信仰と習慣を持つ人々の間に入っていく前に、自分の策略をむなしくし、徹底的に主に従うことを学ばなければならなかったのです。

「契約の箱の後ろを進む」とは、私たちにとって何を意味するのでしょうか?それは「主のことば」を第一にするということでしょう。それは単に毎日聖書を読めばいいということではありません。深い交わりの中で「主の臨在の中を進み行くこと」が大切だということです。「神の国とその義とを第一に求める」とは、全身全霊で主の御心を探り求め、それを生活の中心に据えるということなのです。あたかも、イエスラエルの民が、雲の柱が進めば進み、留まれば一ヶ月でも、一年でも留まったように、徹底的に主に従うことが、私たちにとっても大切なのです。

また主は「身をきよめなさい」とも命じられました。「あす主が、あなた方のうちで不思議を行われるから(4)」です。この「聖さ」こそイスラエルの特徴であり「いのち」でした。新約聖書にはこうあります「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ誰も主を見ることができません(ヘブル12:14)」と。もしこの聖さを失うなら、彼らは霊的ないのちを失い、主の不思議を体験することも、栄光を拝することも出来なくなってしまうのです。聖い主は、聖い者を愛されるのです。

そして、いよいよヨルダン渡河です。この時期のヨルダン川は、雪解け水や、春の雨で、一年で最も増水していました。なぜ主は、よりによってこの時期を選ばれたのでしょうか?それは、イスラエルの民が、「主こそ神である」ことを、今一度はっきりと体験的に知るためであり、それと同時に、「主が、モーセと共にいたように、ヨシュアとも共にいることを(7)」彼らが知るためでありました。だからこそ今回の出来事は、あの出エジプトの紅海横断と、非常に似ているのです。

ヨルダン川の水は、祭司の足が「水ぎわに浸ったとき」にせき止められました。非常に印象的な、まるでスローモーションを見ているかのような描写です。そしてここにこそ「信仰とは何か」という大切なテーマが含まれているのです。確かに奇跡は主の一方的な恵みによります。しかし同時に、不確かさの中で、主のことばにひたすら従う「勇気あるしもべ」を通して行われるのです。カナの婚礼においてもそうでした(ヨハネ2)。信仰とは単なる知識ではなく、行いを伴うものなのです。

あなたにとってのヨルダン川は何でしょうか?仕事におけるトラブルや人間関係、夫婦や家族の問題でしょうか?それとも老いや病、愛する者の死でしょうか?それらはまるで増水したヨルダン川のように、私達を飲み尽くそうとします。◇しかしその中にあっても、聖く、主に従い続ける者は幸いです。なぜならその人は、その只中にあって、主の不思議を体験するからです。

「あなたがたの身をきよめなさい。
あす、主が、あなたがたのうちで
不思議を行なわれるから。」
(ヨシュア3章5節)

2008年8月1日金曜日

第2回「赤いひも」 ヨシュア2章1-24節

今日の箇所で、ヨシュアはカナンの地へ斥候を遣わしています。ある人は、神様が既に「カナンの地を与える」と約束しているのに、斥候(スパイ)を送るなんて不信仰ではないか、と言います。しかし前回、「あなた方の足の裏で踏むところはことごとく…」と学んだように、約束の地をどのように攻め取っていくのか、それを計画し、行動に移していくのは、私たち人間に委ねられた責任なのです。

ふたりの斥候は遊女ラハブのところに入りました。どうして「遊女」の家だったのか、また「そこに泊まった」とは何を意味しているのか謎の多いところです。ある人は戸惑いつつ、このラハブが「単なる宿屋の女主人だった」と解釈しようとします。しかし原語からも、このラハブが「遊女」であったことは間違いありません。難しく考えず「最も怪しまれない場所だった」くらいに考えるのが良いでしょう。

しかしそのことはすぐにエリコの王にばれてしまいます。王の使いは「その者たちをすぐに連れ出せ」とラハブに迫りましたが、ラハブは「もうどこかに行ってしまいました」と答えました。これは嘘でしょうか?十戒の学びで、「偽り」の基準は、愛(自己犠牲)の有無だと学びました。もしラハブが、自己保身のためや、自分の利益のためや、自分の罪を覆い隠すために、事実ではないことを言ったならば、それは明らかな「嘘」です。しかしラハブは「信仰」のゆえに、敵国イスラエルの斥候を命がけでかくまったのです。それは自己犠牲以外の何者でもありません。

ラハブの信仰とは、どのような信仰だったのでしょうか?彼女の知っていたことは、ごく僅かでした。教理的な知識など全く無く、ただ噂により「イスラエルの民が葦の海(紅海)を渡ってきたこと、そしてシホンとオグを聖絶したことなど」を聞いて知っていたのです。しかし彼女はそれによって「あなた方の神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」との信仰を持つにいたったのです。

また彼女は、その信仰を、行動において証明しました。ヘブル書にはこうあります。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました(11:31)」。またヤコブ書には「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか(2:25)」と紹介されています。つまり信仰とは、知識の多少ではなく、知識はわずかでも、その「核心」を悟り、それを行動に移すことです。その信仰のゆえにラハブは賞賛されました。

また彼女は、家族のためにも、熱心にとりなしました。「自分だけが助かればよい」とは思わなかったのです。彼女は遊女でした。もしかしたら、家族とは疎遠になっていたかもしれません。城壁の一角に住んでいたのも、社会的に隔離されていたからかもしれません。でも彼女は卑屈にならず、それでも家族を愛し「(私の)父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて誓ってください」と懇願したのです。

その信仰と熱心さのゆえに、一つの「契約」が結ばれました。そのしるしは「赤いひも」でした。もとはと言えば「神の民」と「異邦人の遊女」、この両者の間には何の関係もありませんでした。しかしこの「赤いひも」によって結び合わされ、ラハブは「神の民の一員」に加えられ、キリストの系図にまで名を連ねたのです。

あなたもかつては「異邦人」でした。しかし今や「選びの民」です。その契約のしるしは「赤いひも」ならぬ「真っ赤な血潮」です。イエス様が流された十字架の血潮のゆえに、私達は神の民の一員に加えられたのです。でもあなたは「自分だけが救われればよい」と思っていませんか?ラハブのように家族のために必死に行動していますか?

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、
今ではキリスト・イエス血によって
近い者とされたのです。
(エペソ2:13抜粋)

第1回「態勢を整えよ」 ヨシュア1章1-18節

今日からいよいよ新シリーズの始まりです。今日から少しずつ「ヨシュア記」を読み進めていきたいと思います。ヨシュア記の神学をひとことにまとめると「勝利と征服」です。中には「聖絶」なんて言葉も出てきて「ヨシュア記はどうも暴力的で苦手だ」と思われる方もいることでしょう。もちろん、新約時代に生きる私達は、それをそのまま今日に適用はしません。しかし、ヨシュア記から学び取れる「霊的な教訓」は今なおたくさんあるのです。少しずつ学んでいきましょう。

ヨシュア記の始まりは「さて、主のしもべモーセが死んで」です。モーセはエジプト脱出以降、40年にもわたりイスラエルの民を導いた偉大な指導者でした。ヨシュアは若いころからそのモーセに従者として仕え、モーセの祈る姿をいつも間近に見てきました(出33:11)。またその結果、主がいつも不思議な方法で救い出してくださるのを身近に体験してきました。そのモーセが、死んでしまったのです。

ヨシュアはどんな気持ちだったでしょうか?いくらモーセと共に、数々の修羅場をくぐり抜けてきたとはいえ、ただの「従者」であることと、自分が「指導者」にされることの間には雲泥の差があります。この時のヨシュアは、モーセという、とてつもなく大きな保護の元から放り出され、かつて経験したことのないほどのプレッシャーを感じていたことでしょう。目の前には、約束の地カナンが広がっているのですが、そこには屈強なカナン人が、星の数ほど待ち受けているのです。

そんなヨシュアに、主は何度も何度も「雄々しくあれ、強くあれ」と語られました。なぜでしょうか?指導者というものは、弱く臆病であってはいけないからです。敵がおそってきても、大問題が起きても、民の前では、希望に溢れ、前向きで、勇敢でなくてはなりません。でも、そんな勇気は自分の中からは湧き上がってこないのです。せいぜい湧き出て「空元気」くらいのものでしょう。本当の勇気とは、「いつも主がともにいてくださる」ことを信じる信仰から生まれるのです(5-6)。

また主は「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく(3)」とも言われました。面白い表現ですね。その意味するところは「私たちが実際に出て行って、自分の足で主とともに、一歩一歩進んでいくなら、主は少しずつ約束を成就して下さる」ということです。「約束の地カナンを与える」という約束は神様のご計画の中で既に確定しています。しかしその成就には「私たち人間の従順」が必要不可欠なのです。

従順とは御言葉に対する従順でもあります。主はヨシュアにこう言われました。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そこに記されている全てのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである(8)」と。自分勝手に飛び出して、いくら足の裏で踏みつけても、その地は与えられないのです。

また民には「一枚岩」であることが求められます。これから本格的な戦いが始まろうとしている時に、彼らがいつまでも「今まではこうだった」「モーセが生きていれば」などと後ろばかりをみていたら、とても戦いにならないでしょう。しかし彼らは「私たちはモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います(17)」と新しい指導者のもとに「一枚岩」となることが出来たのです。この時、本当の意味で戦う態勢が整いました。民の正しい期待が、指導者を指導者らしくするのです。

あなたの「戦う態勢」は整っていますか?信仰がぐらついていませんか?教会は「一枚岩」となっているでしょうか?もっと深刻なのは、信仰生活に緊張感がなくなっていることかもしれません。さぁ目を覚ましなさい。そして戦いの態勢を整えなさい!

あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。
わたしはすでに世に勝ったのです。
(ヨハネ16章33節)