2008年11月13日木曜日

第10回「立てた誓を変えない」9章1-27節

かつてカナンの王たちはイスラエルがエリコに勝利したと聞くと「心がしなえて勇気が無くなって(5:1)」しまいました。しかし彼らはもしかしたら、イスラエルが一度でもアイに敗北したことを聞いて、勇気を取り戻したのかもしれません、彼らは連合軍を組んでイスラエルと戦おうとしました(1-2)。しかしその中で、イスラエルとの戦いを何とか回避し和平の道を探るものもありました。それがギブオンです。彼らはいったいどのようにしてイスラエルに近付いたのでしょう?

それは変装によってでした(4)。彼らはいかにも長旅をしてきたように、古びた服を着て、乾いたパンを持ってきたのです(5)。そしてこう言いました。「私たちは遠い国から来ました。ですから今私たちと盟約を結んでください(6)」と。最初イエラエルの人々は慎重に聞いていました(7)。しかし彼らの非常に謙遜な態度と、もっともらしい作り話によって騙されてしまいました。その軽はずみな判断の原因は、彼らが「主の指示を仰がなかった(14)」ことにありました。

イスラエルが騙されたことに気がついたのは、その三日後でした(16)。当然、会衆は「何で和を講じたのか」と族長たちに不平を鳴らしました(18)。この時、民がヨシュアにではなく、族長たちに不平を鳴らしたのは不思議ですが、おそらく「族長主導」だったのでしょう。その不平に対し、族長たちは「いったん主にかけて誓ったことは撤回できない(19)」と答えました。それは正しい判断でした。「損になっても、立てた誓を変えない」というのが主の民の生き方でした。

とはいえ、そもそも盟約を結んだことは間違いでした。主はかつてモーセを通して、明確に「あなたは彼らを聖絶しなければならない。彼らと何の契約も結んではならない。容赦してはならない(申7:2)」と命じていました。いくら騙されたとはいえ、イスラエルはこの主の命令に背いたのです!しかも彼らは「イスラエルの神、主にかけて誓った(19)」のです。ろくに確かめもしないで、主の指示も仰がず、自分勝手に「主の御名によって」誓ったのです。この背きの罪の結果はずっと後に、思わぬ形で、刈り取らなければなりませんでした(Ⅱサム21章)。

イエス様は「決して誓ってはいけません」と教えられました。特に「天を指して」誓ってはいけないと(マタ5章)。なぜ私たちは天を指して誓いたくなるのでしょう?それは人というものがいかに不確かで、罪深いかを知っているからです。だから「絶対的なものを指して」「言葉に拘束力を持たせたくなる」のです。もし全ての人が本当に「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言える社会なら「誓約」そのものが必要なくなります。イエス様の基準は本来それほど高いのです。

しかし現実にこの世には罪が存在します。そして罪ある者同士が大事な約束をする際には「誓約」が必要となります。ある時はイスラエルのように騙されてしまうことがあるかもしれません。でも私たちは、騙されることはあっても、決して人を騙してはいけないし、契約を結んだ後に、それが自分の損になっても、自分勝手に変えてはいけないのです。大切なのは、軽率に誓わないこと。どうしても誓わなければいけない時には「主の指示をよく仰ぎ」「必ず果たす」ことなのです。

ギブオンがその後どうなったかご存知でしょうか?彼らは最初、ヨシュアが言ったように、「奴隷の身分」とされました(23)。しかしバビロン捕囚以後は、イスラエルの民に完全に組み入れられたのです(ネヘ7:25)!◆彼らがイスラエルを騙したことは、確かに悪い事でした。だから彼らはその実を刈り取りました。しかし彼らは、イスラエルの主の偉大さを畏れたからこそ、イスラエルと戦わず和平の道を探ったのです(24)。主はそのギブオンの信仰を見て、ラハブと同様に憐れみをかけ、ご自分の民に加えられたのです。

主よ。
だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。
それは、損になっても、
立てた誓いは変えない人。
(詩篇15篇1,4節 抜粋)

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