2008年11月20日木曜日

第11回「ギブオンへの憐れみ」10章1-14節

私たちは、ヨシュア記を読み進めていますが、ヨシュア記を読んでいると、どうしても神様の「愛」より「義」のご性質の方が前面に出ているように感じます。特に今日読んだ10章から12章までは、なんとも血なまぐさい戦いの記録が続いているのです。しかしそういった個所の中にも、よく読んでみると、神様の深い「愛」と「憐れみ」がにじみ出ているのです。いったいどういうことでしょうか?

前回学んだように、ギブオンは、イスラエルを騙しました。今日の箇所では、そのギブオンが窮地に陥っています。何と同じエモリ人仲間の5人の王が立ち上がり、ギブオンに対して陣を敷き、攻め上ってきたのです(1‐5)。しかし不思議ではないでしょうか?なぜ彼らは、彼らにとっての侵略者であるイスラエルにではなく、ギブオンに対して戦いを挑んで来たのでしょうか。きっとそこには「イスラエルに対する恐れ」と「裏切り者」に対する憤りが、複雑に絡まっていたのでしょう。

ギブオンは、イスラエルに助けを求めこう言いました。「あなたのしもべどもからあなたの手を引かないで、早く、私たちのところに上って来て私たちを救い、助けてください。山地に住むエモリ人の王たちがみな集まって、私たちに向かっているからです(6)」と。あなただったらどうしますか?盟約を結んでいるとはいえ自分を騙した相手です。そんな人のために命の危険を冒してまで、助けようと思うでしょうか?ところがヨシュアは、すぐに勇士を引き連れて向かったのです。

ヨシュアはただ主の言葉に従ったのです。ヨシュアは行動に先んじて祈りのうちに、こんな主の言葉を聞いていたのでした。「彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない(8)」と。だからその言葉に従って、ギルガルに上って行ったのです。そして実際に主は、自ら敵をかき乱し(10)、雹を降らせ(11)、不思議な方法で日を延ばし(13)、イスラエルとともに戦われたのです。

いったいなぜでしょうか?それはすべて「契約」のゆえです。確かに彼らはイスラエルをだまして盟約を結びました。しかしそれさえも「主にかけて(9:19)」誓われたものなのです。主はその誓いをも覚えておられ、ギブオンを助けられたのです。14節には「主がイスラエルのために戦ったからである」とありますが、その「イスラエル」の中には、もう既に「ギブオン」も加えられているのです!

私たちも同じではないでしょうか?全く相応しくない者であるのに、一方的な愛と憐れみによって、十字架により「契約」が結ばれました。その契約はいつまでも変わることがありません。聖書にはこうあります「あなたがたは以前は神の民ではなかったのに今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに今はあわれみを受けた者です(Ⅰペテロ2:10)」と。だから私たちも今は、ギブオンと同じように、主に助けを求めるならば、主ご自身が守ってくださるのです。

あなたも人生の方向転換をして、主に向き直る時、今までの仲間がそれを「裏切り」と受け取り、必死に抵抗するかもしれません。表だった迫害ではなくても、信仰にたいする無理解や、辱めるような言葉があるかもしれません。また今までの仲間と、自然に距離ができてしまうこともあるかもしれません。◆もしそうであっても驚いてはいけません。なぜならあなたはもう既に「光の子ども」であり「御国の民」だからです。違っていても当然なのです。そして恐れる必要はありません。主が、あなたのために戦われるのですから。

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
イザヤ41章10節

0 件のコメント: