2008年11月3日月曜日

第9回「嬉しい時の神頼み」 8章30-35節

前回、前々回と、油断によって大きな敗北を帰した二つの民族を見てきました。ひとつはイスラエルで、ひとつはアイです。彼らはともに敵であったにもかかわらず奇妙な共通点を持っていました。それは、ともに大勝利の後に、惨敗をしてしまったという点です。前回私たちはこう学びました。「失敗や敗北は誰にでもあるものです。私たちは完全無欠の神ではないのですから…。大切なのは『その後』です」と。イスラエルの民は、その苦い経験から何を学んだのでしょうか?

それは喜びの日に「祭壇」を築き、いけにえをささげるということです。民数記にもこうあります。「またあなたがたの喜びの日に、あなたがたの全焼のいけにえと、和解のいけにえの上に、ラッパを鳴り渡らせるなら、あなたがたは、あなたがたの神の前に覚えられる(10:10)」。ヨルダン渡河の後には石塚を築き(4:9)、エリコとの決戦の前には主の将の前にひざまずき(5:15)、そうして主を覚えてきたのに、エリコとの決戦の後には、特に主の恵みを覚えることも何もなかったのです。

私たちも同じようなことがないでしょうか。新約聖書にはツァラアト(らい病)をいやされた10人が登場しますが(ルカ17:11-19)、彼らの中でイエス様に感謝するために戻ってきたのはたった1名のみでした。私たちも似ています。困っているときには必死に主にすがりつくのですが、問題が解決すると、すぐにその恩を忘れてしまい、ひどい場合には「自分の力で解決した」と勘違いしてしまうのです。そして「慢心」と「油断」が湧き上がり、次の戦いに敗北してしまうのです。

三浦綾子さんの「嬉しい時の神頼み」という言葉は印象的です。私たちを敗北へと導くのはなにも「試練」や「迫害」ばかりではありません。もっと恐ろしいのは「成功」や「名声」ではないでしょうか。それらによって私たちは、生活の中で主を覚えることを忘れ、浮足立ち、霊的な感性を失ってしまうのです。そうならないためにも、「喜びの日」に、しっかり主を覚え、感謝することが大切なのです。

では生活の中で「いけにえをささげる」とはどういうことでしょうか。「いけにえ」には物質的なものと霊的なものがあります。その両方に共通しているのは「痛みが伴う」ということです。現代人は「形」を軽んじる傾向がありますが、それにより祝福を失っているのは、私たち自身なのです。特別な恵みを受けたら「形(物質)」でも感謝を表明するというのは信仰の基本です。アカンはそれが出来ませんでした。彼は主に感謝を表すどころか、惜しみ、主のものを盗んでしまったのです。

しかしより大切なのは「霊的ないけにえ」です。詩篇にはこうあります。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません(51:17)」と。言ってみれば「霊的な祭壇」とは御言葉を中心とした生活のことです。そしてその上に捧げる「霊的ないけにえ」とは、御言葉から来るところの「悔い改め」なのです。ヨシュアは喜びの日に「律法の言葉をことごとく読み上げ(34)」ました。そして民は罪を示され「アーメン」と悔い改めたのです。

喜びの日にどう過ごすか、そこに信仰が現れます。あなたは生活の中で恵みを経験したり、祈りが聞かれたりする時どのように過ごしていますか?あたかも当然のように、やがて忘れてしまいますか?それとも恵みを、主の前に覚える機会をちゃんと持っているでしょうか?◆「嬉しい時の神頼み」ぜひ実践したいものです。普段から御言葉を中心とした生活を送り、霊的・物質的ないけにえを主に捧げていく、目には見えませんがその積み重ねが、あなたの信仰を強くし、次の決戦の時にも、勝利をおさめることができるのです。

十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。
神をあがめるために戻って来た者は、
この外国人のほかには、だれもいないのか。
(ルカ17章17-18節)

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