2008年11月27日木曜日

第12回「開拓者精神を忘れるな」17章14-18節

信仰に対してあまり理解を持っていない人と話していると、しばしば同じ誤解に気付きます。彼らは言います「信仰とは『弱い人』が持つもので『強い人』は自分の力で試練を乗り越えるものだ」「だから僕は僕の力で…。宗教は結構です」と。私は自分が「強い」と主張するつもりはありません。自分が弱いことは分かっています。しかしだからと言って、全部を「他人任せ」にしている「弱虫」や「怠け者」ではありません。本当の信仰とは、一体どのようなものなのでしょう?

そもそもヨシュア記はこのような主の言葉で幕を開けていました。「あなたの足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通りあなたに与えている(1:3)」と。ともすると、信仰は「現実逃避」のように思われがちですが、本当の信仰とはここにもあるとおり、主の約束を堅く信じながらも、自分の足の裏でしっかりと地面をとらえ、一歩一歩、前進することなのです。「主に信頼」することと「主に依存」することは違います。「依存」は自分の努力を放棄しますが、主に「信頼」する者は、どんな試練の中でも失望することがなく、立ち止まることもなく、7回倒されても、8回起き上がり、前に向かって進んで行くことができるのです。

未熟な信仰は「棚ぼた」ばかりを期待し、与えられたものに感謝がありません。ヨセフ族もそうだったのかもしれません。彼らは、ただ恵みによって、イスラエルの中でも特に「数の多い、大きな力を持つ民(17)」へと成長しました。そしてこの時も、他の部族よりも多い、約2倍の領地が分割されました。しかし彼らは「なぜ、ただ一つの割り当て地しか…」と不平を漏らし、その領地に対しても「山地が多く、鉄の戦車を持っているカナン人がまだ残っている(16)」と不平を漏らしたのです…。彼らをそこまで大きくしたのは誰でしょうか?その領地を与えてくださったのは誰でしょうか?主ではありませんか!なのに彼らは、自分たちの勢力を誇り、自分たちはもっともらって当然だと言わんばかりに不平を漏らしたのです。

それに対し、成熟した信仰は「時間をかけ、主とともに造り上げること」を喜びとします。ヨシュアには、そのことがよく分かっていました。だから彼はヨセフ族に対し「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは森であっても、それを切り開いて、あなたのものとしなければならない」(17-18)と答えたのです。主は必要な「力」と「勇気」を与えられます。私たちは、自分の「手」と「足」を用いて、行くべき道を「切り開いて」行かなくてはなりません。何の努力もせず、僅かなもので「満足しなさい(ヘブ13:5)」と聖書は教えているのではありません。最善を尽くした結果、与えられた物には満足しなさい、と教えられているのです。

クリスチャンの人生は「生涯冒険」です。私が卒業した高校の校訓に「開拓者精神(フロンティア・スピリット)を忘れるな」とありました。でも実はクリスチャンこそ、このスピリットを忘れてはいけないのだと思います。棚から牡丹餅信仰ではなく、主とともに、時間をかけてでも、新たな領域を一歩一歩「切り開いて」いくことに、信仰の醍醐味があります。目の前には強大な敵が立ちはだかっているかもしれません。エリコの壁が存在するかもしれません。しかし老いも若きも「主を待ち望む者は新しく力を得、走ってもたゆまず歩いても疲れない(イザ40:31)」のです!

あなたは主に、大いなることを期待していますか?ヴィジョンに向かって一歩一歩前進していますか?このスピリットをなくすとき私たちの心(教会)には不平不満が湧き上がってきます。いま一度立ち上がり、主とともに、新たな領地を開拓しようではありませんか!

ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。
「私を大いに祝福し、
私の地境を広げてくださいますように。
御手が私とともにあり、
わざわいから遠ざけて
私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」
そこで神は彼の願ったことをかなえられた。
Ⅰ歴代誌4章10節

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