2008年12月12日金曜日

第13回「人生の冬に」 23章1-16節、24章14-33節

いよいよヨシュア記の学びも最後になりましたが、今日は晩年のヨシュアの姿から「人生の冬に」と題して、共に学びたいと思います。まだ若い(?)私がその問題について語るのも無理があるかもしれません。そこで「目には見えないけれども大切なこと」(渡辺和子)という本からもヒントを得て「老い」そのものについて一緒に考えたいと思います。クリスチャンとして、どう向き合うべきか。

「人生の秋」を迎えた時、ヨシュアはまだまだ力に溢れていました。主はそんなヨシュアにこう仰せられました。「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている(13:1)」と。人にはいろいろなタイプの人がいます。一定の年齢に達するとすぐに「隠居」を決め込んでしまう人。反対に「まだまだ現役で」とハツラツとしている人。現代人はとかく忙しく、本当の意味で主に仕えられるのは「定年後」であるのかもしれません。そう考えると、ヨシュアに対する主の言葉は「人生の秋」を迎えた現代人にも語られているのかもしれません。

しかし今日の箇所で、ヨシュアはさらに年を重ね「人生の冬」を迎えています。この時期になると、人はいろいろなものを手放さなければなりません。それまで築いてきた「仕事」「立場」「健康」「奉仕」など。イエス様は30代前半で十字架にかかられましたが、この「老い」についてよく理解しておられ、ペテロにこう教えられました。「あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます(ヨハネ21:18)」と。

その時、私たちの「価値観」が明らかにされます。誰しも「老いる」のですが、誰もが「美しく老いる」わけではありません。ある人は仙崖和尚が言ったように「心が曲り、欲深くなり、愚痴っぽく」なります。しかしある人はヘルマン神父が言うように「まことの故郷へ向けて、この世の鎖から解放されていく」のです。「人生の冬」になるとその人の価値観が表ににじみ出てきます。目に見えるものではなく、永遠に心をとめる者は、「この世の鎖」から解放されていきます。しかしこの世に望みを置くものは、ますます鎖でがんじがらめになってしまうのです。

ヨシュアはどうだったでしょうか。若くて、力にあふれた青年ヨシュアも、この時、すでに110歳になっていました。当然、肉体の衰えは隠せなかったでしょう。しかし彼は、民全体の前で響き渡る声でもって、こう宣言したのです。「私と、私の家とは主に仕える(24:15)」と。もちろん、自分と自分の家族だけが、主に仕えれば良いと思っていたのではありません。まず自分と自分の家とが、主に仕えることによって、イスラエル全体にもそうであって欲しいと願っていたのでした。

その宣言の背後には、どれほどの祈りが積まれていたことでしょうか。ヘルマン神父は「神は最後に一番良い奉仕を残してくださる。それこそ祈り」と言いましたが、祈りこそ、一生続けられる、最も大切な奉仕です。祈りの奉仕とは、特別なことではありません。まずは「私と私の家」とが主に仕えることを、心の底から願い、祈るのです!またその家族を通して、恵みが、教会、地域、そして全世界へと広がっていくようにとも。大きな視野に立つ、最も具体的な祈りに力があるのです。

子育てに終わりがあっても、祈りに終わりはありません!家族が救われないのは「あなたの責任だ」と言うのではありません。それは神様の領域であって、私たちにはわからないことです。◆しかし私たちには、家族のために「真剣に祈り続ける義務と責任」があるのです!その責任を放棄してはいけません。祈りこそ生涯続く、最も大切な奉仕なのです。

年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。
私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、
後に来るすべての者に告げ知らせます。詩篇71篇18節



~~~付録~~~

「老人六歌仙」
仙崖(せんがい)和尚(江戸時代の禅僧)

しわがよる、ほくろができる、腰が曲がる、
頭がはげる、毛は白くなる。

手はふるう、足はよろつく、歯は抜ける、
耳は聞こえず、目はうとくなる。

身に合うは、頭巾(ずきん)、襟巻(えりまき)、杖、眼鏡、
湯たんぽ、温石(おんじゃく)、しびん、孫の手。

聞きたがる、死にともながる、淋しがる。
心はまがる、欲深くなる。

くどくなる、気短かになる、ぐちになる、
でしゃばりたがる、世話やきたがる。

またしても、同じはなしに孫ほめる、
達者自慢に、人をあなどる。



「年をとるすべ」
ヘルマン・ホイヴェルス神父による引用

この世で最上のわざとは何だろう

楽しい心で年をとり、
働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り
失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架をになうこと。

若者が元気いっぱいで
神の道を歩むのを見ても、
ねたまず、

人のために働くよりも
謙虚に人の世話になり、
弱って、人のために役立たずとも
親切で、柔和であること。

老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、最後の磨きをかけよ。

まことのふるさとへ行くために、
魂をこの世に縛りつける鎖を
少しずつはずしていくのは、
まことにえらい仕事。

そして全てが取り去られても、
それを謙遜に承諾しよう。

神は最後に、
一番良い奉仕を残してくださる。
それこそ、祈り。
手は何もできなくとも
最後まで合掌はできる。
愛するすべての人の上に、
神の恵みを求めて。

すべてをなし終えたら、
臨終の床に、神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。

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