2008年8月1日金曜日

第2回「赤いひも」 ヨシュア2章1-24節

今日の箇所で、ヨシュアはカナンの地へ斥候を遣わしています。ある人は、神様が既に「カナンの地を与える」と約束しているのに、斥候(スパイ)を送るなんて不信仰ではないか、と言います。しかし前回、「あなた方の足の裏で踏むところはことごとく…」と学んだように、約束の地をどのように攻め取っていくのか、それを計画し、行動に移していくのは、私たち人間に委ねられた責任なのです。

ふたりの斥候は遊女ラハブのところに入りました。どうして「遊女」の家だったのか、また「そこに泊まった」とは何を意味しているのか謎の多いところです。ある人は戸惑いつつ、このラハブが「単なる宿屋の女主人だった」と解釈しようとします。しかし原語からも、このラハブが「遊女」であったことは間違いありません。難しく考えず「最も怪しまれない場所だった」くらいに考えるのが良いでしょう。

しかしそのことはすぐにエリコの王にばれてしまいます。王の使いは「その者たちをすぐに連れ出せ」とラハブに迫りましたが、ラハブは「もうどこかに行ってしまいました」と答えました。これは嘘でしょうか?十戒の学びで、「偽り」の基準は、愛(自己犠牲)の有無だと学びました。もしラハブが、自己保身のためや、自分の利益のためや、自分の罪を覆い隠すために、事実ではないことを言ったならば、それは明らかな「嘘」です。しかしラハブは「信仰」のゆえに、敵国イスラエルの斥候を命がけでかくまったのです。それは自己犠牲以外の何者でもありません。

ラハブの信仰とは、どのような信仰だったのでしょうか?彼女の知っていたことは、ごく僅かでした。教理的な知識など全く無く、ただ噂により「イスラエルの民が葦の海(紅海)を渡ってきたこと、そしてシホンとオグを聖絶したことなど」を聞いて知っていたのです。しかし彼女はそれによって「あなた方の神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」との信仰を持つにいたったのです。

また彼女は、その信仰を、行動において証明しました。ヘブル書にはこうあります。「信仰によって、遊女ラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な人たちといっしょに滅びることを免れました(11:31)」。またヤコブ書には「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行ないによって義と認められたではありませんか(2:25)」と紹介されています。つまり信仰とは、知識の多少ではなく、知識はわずかでも、その「核心」を悟り、それを行動に移すことです。その信仰のゆえにラハブは賞賛されました。

また彼女は、家族のためにも、熱心にとりなしました。「自分だけが助かればよい」とは思わなかったのです。彼女は遊女でした。もしかしたら、家族とは疎遠になっていたかもしれません。城壁の一角に住んでいたのも、社会的に隔離されていたからかもしれません。でも彼女は卑屈にならず、それでも家族を愛し「(私の)父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて誓ってください」と懇願したのです。

その信仰と熱心さのゆえに、一つの「契約」が結ばれました。そのしるしは「赤いひも」でした。もとはと言えば「神の民」と「異邦人の遊女」、この両者の間には何の関係もありませんでした。しかしこの「赤いひも」によって結び合わされ、ラハブは「神の民の一員」に加えられ、キリストの系図にまで名を連ねたのです。

あなたもかつては「異邦人」でした。しかし今や「選びの民」です。その契約のしるしは「赤いひも」ならぬ「真っ赤な血潮」です。イエス様が流された十字架の血潮のゆえに、私達は神の民の一員に加えられたのです。でもあなたは「自分だけが救われればよい」と思っていませんか?ラハブのように家族のために必死に行動していますか?

しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、
今ではキリスト・イエス血によって
近い者とされたのです。
(エペソ2:13抜粋)

第1回「態勢を整えよ」 ヨシュア1章1-18節

今日からいよいよ新シリーズの始まりです。今日から少しずつ「ヨシュア記」を読み進めていきたいと思います。ヨシュア記の神学をひとことにまとめると「勝利と征服」です。中には「聖絶」なんて言葉も出てきて「ヨシュア記はどうも暴力的で苦手だ」と思われる方もいることでしょう。もちろん、新約時代に生きる私達は、それをそのまま今日に適用はしません。しかし、ヨシュア記から学び取れる「霊的な教訓」は今なおたくさんあるのです。少しずつ学んでいきましょう。

ヨシュア記の始まりは「さて、主のしもべモーセが死んで」です。モーセはエジプト脱出以降、40年にもわたりイスラエルの民を導いた偉大な指導者でした。ヨシュアは若いころからそのモーセに従者として仕え、モーセの祈る姿をいつも間近に見てきました(出33:11)。またその結果、主がいつも不思議な方法で救い出してくださるのを身近に体験してきました。そのモーセが、死んでしまったのです。

ヨシュアはどんな気持ちだったでしょうか?いくらモーセと共に、数々の修羅場をくぐり抜けてきたとはいえ、ただの「従者」であることと、自分が「指導者」にされることの間には雲泥の差があります。この時のヨシュアは、モーセという、とてつもなく大きな保護の元から放り出され、かつて経験したことのないほどのプレッシャーを感じていたことでしょう。目の前には、約束の地カナンが広がっているのですが、そこには屈強なカナン人が、星の数ほど待ち受けているのです。

そんなヨシュアに、主は何度も何度も「雄々しくあれ、強くあれ」と語られました。なぜでしょうか?指導者というものは、弱く臆病であってはいけないからです。敵がおそってきても、大問題が起きても、民の前では、希望に溢れ、前向きで、勇敢でなくてはなりません。でも、そんな勇気は自分の中からは湧き上がってこないのです。せいぜい湧き出て「空元気」くらいのものでしょう。本当の勇気とは、「いつも主がともにいてくださる」ことを信じる信仰から生まれるのです(5-6)。

また主は「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく(3)」とも言われました。面白い表現ですね。その意味するところは「私たちが実際に出て行って、自分の足で主とともに、一歩一歩進んでいくなら、主は少しずつ約束を成就して下さる」ということです。「約束の地カナンを与える」という約束は神様のご計画の中で既に確定しています。しかしその成就には「私たち人間の従順」が必要不可欠なのです。

従順とは御言葉に対する従順でもあります。主はヨシュアにこう言われました。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そこに記されている全てのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである(8)」と。自分勝手に飛び出して、いくら足の裏で踏みつけても、その地は与えられないのです。

また民には「一枚岩」であることが求められます。これから本格的な戦いが始まろうとしている時に、彼らがいつまでも「今まではこうだった」「モーセが生きていれば」などと後ろばかりをみていたら、とても戦いにならないでしょう。しかし彼らは「私たちはモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います(17)」と新しい指導者のもとに「一枚岩」となることが出来たのです。この時、本当の意味で戦う態勢が整いました。民の正しい期待が、指導者を指導者らしくするのです。

あなたの「戦う態勢」は整っていますか?信仰がぐらついていませんか?教会は「一枚岩」となっているでしょうか?もっと深刻なのは、信仰生活に緊張感がなくなっていることかもしれません。さぁ目を覚ましなさい。そして戦いの態勢を整えなさい!

あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。
わたしはすでに世に勝ったのです。
(ヨハネ16章33節)