今日からいよいよ新シリーズの始まりです。今日から少しずつ「ヨシュア記」を読み進めていきたいと思います。ヨシュア記の神学をひとことにまとめると「勝利と征服」です。中には「聖絶」なんて言葉も出てきて「ヨシュア記はどうも暴力的で苦手だ」と思われる方もいることでしょう。もちろん、新約時代に生きる私達は、それをそのまま今日に適用はしません。しかし、ヨシュア記から学び取れる「霊的な教訓」は今なおたくさんあるのです。少しずつ学んでいきましょう。
ヨシュア記の始まりは「さて、主のしもべモーセが死んで」です。モーセはエジプト脱出以降、40年にもわたりイスラエルの民を導いた偉大な指導者でした。ヨシュアは若いころからそのモーセに従者として仕え、モーセの祈る姿をいつも間近に見てきました(出33:11)。またその結果、主がいつも不思議な方法で救い出してくださるのを身近に体験してきました。そのモーセが、死んでしまったのです。
ヨシュアはどんな気持ちだったでしょうか?いくらモーセと共に、数々の修羅場をくぐり抜けてきたとはいえ、ただの「従者」であることと、自分が「指導者」にされることの間には雲泥の差があります。この時のヨシュアは、モーセという、とてつもなく大きな保護の元から放り出され、かつて経験したことのないほどのプレッシャーを感じていたことでしょう。目の前には、約束の地カナンが広がっているのですが、そこには屈強なカナン人が、星の数ほど待ち受けているのです。
そんなヨシュアに、主は何度も何度も「雄々しくあれ、強くあれ」と語られました。なぜでしょうか?指導者というものは、弱く臆病であってはいけないからです。敵がおそってきても、大問題が起きても、民の前では、希望に溢れ、前向きで、勇敢でなくてはなりません。でも、そんな勇気は自分の中からは湧き上がってこないのです。せいぜい湧き出て「空元気」くらいのものでしょう。本当の勇気とは、「いつも主がともにいてくださる」ことを信じる信仰から生まれるのです(5-6)。
また主は「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく(3)」とも言われました。面白い表現ですね。その意味するところは「私たちが実際に出て行って、自分の足で主とともに、一歩一歩進んでいくなら、主は少しずつ約束を成就して下さる」ということです。「約束の地カナンを与える」という約束は神様のご計画の中で既に確定しています。しかしその成就には「私たち人間の従順」が必要不可欠なのです。
従順とは御言葉に対する従順でもあります。主はヨシュアにこう言われました。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そこに記されている全てのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである(8)」と。自分勝手に飛び出して、いくら足の裏で踏みつけても、その地は与えられないのです。
また民には「一枚岩」であることが求められます。これから本格的な戦いが始まろうとしている時に、彼らがいつまでも「今まではこうだった」「モーセが生きていれば」などと後ろばかりをみていたら、とても戦いにならないでしょう。しかし彼らは「私たちはモーセに聞き従ったように、あなたに聞き従います(17)」と新しい指導者のもとに「一枚岩」となることが出来たのです。この時、本当の意味で戦う態勢が整いました。民の正しい期待が、指導者を指導者らしくするのです。
あなたの「戦う態勢」は整っていますか?信仰がぐらついていませんか?教会は「一枚岩」となっているでしょうか?もっと深刻なのは、信仰生活に緊張感がなくなっていることかもしれません。さぁ目を覚ましなさい。そして戦いの態勢を整えなさい!
あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。
わたしはすでに世に勝ったのです。
(ヨハネ16章33節)
それでも Anyway
-
時々
さみしくなるよ
どうして 心が通じないのかな
どうして 信じてもらえないのかな
そんな時は この10ヶ条を読みたくなる
この 悲しみに 負けてしまわないように
それでも 人を愛することが
できますように
1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しな...
8 年前
0 件のコメント:
コメントを投稿