2008年10月14日火曜日

第5回 「戦いの直前に」 5章1-15節

今回はエリコの戦の直前の箇所です。このような時に、イスラエルは「割礼」と「過越しの祝い」を行いました。一つ間違えば非常に危険です。傷が痛んでいるところを奇襲されてしまうかもしれません。祝っている隙に、攻め込まれてしまうかもしれません。なぜ、この二つがそれほど重要だったのでしょうか…?

主はヨシュアに、「もう一度、イスラエルに割礼をせよ」と命じられました。彼らは、エジプトを出て以来40年以上も割礼を受けていなかったのです。その40年の間に、出エジプト第一世代は、自らの不信のために死に絶え、荒野で生まれた子供達だけが生き残っていたのです(4-6)。おそらくヨシュアとカレブ以外の者は、誰も割礼を受けていなかったことのでしょう。彼らは大切な何かを失っていました。

それはイスラエル民族のアイデンティティーです。アブラハム以来、イスラエルに属する男子は、奴隷も在留異国人も皆、この割礼を受けなければなりませんでした(創世記17:10)。それによって彼らは、自分達こそがアブラハムに与えられた契約の「正当な継承者」であることを確認していたのです。その契約とは「約束の地カナンにおいて、自分達の子孫は星の数ほどに増え広がる」ことでした。

またこの割礼は「過去との決別」を意味していました。彼らは「割礼」によって忌まわしい過去と決別し(9)、カナンの地でとれた麦で作った「種無しパン」を食べ、もう後ろを振り向かない、この地で生きていくと覚悟を決めたのです。その翌日からマナが止みました。割礼が文字通り新しい時代の「皮切り」となったのです。

私たちにとっての「割礼」とは何でしょうか?それは「洗礼」のことです。単なる儀式としての洗礼ではなく、古い自分をことごとく十字架につけ、キリストの復活の命に預かったしるしとしての洗礼が大切なのです。これを「新しい創造」「新生」と呼びます。この新生を経験するためには、古い自分をしっかり切り捨てなければいけないのです。もし中途半端に切り落とすなら、余計に傷口が傷むのです(8)。

また私たちにとっての「過ぎ越し」とは何でしょうか?それは「聖餐式」です。私達は聖餐式で、キリストのからだを食し、キリストの血を飲みます。それによって、十字架の恵みにより救われ「永遠のいのち(新しい契約)」の継承者とされていることを感謝するのです。と同時に、聖餐式において私達は「もう後ろを振り向かない」「死に至るまでも、キリストに忠実であること」を誓っているのです。反対に言えば、その覚悟が無い者は、本来、聖餐式にはふさわしくないのです。

最後に、大きな戦いの前にこそ「砕かれ」「へりくだる」必要があります。ヨシュアは主の将の前で、はきものを脱いでひれ伏しました。それにより彼は、この戦いを勝利に導くのは、自分の能力や力ではなく、イスラエルの軍勢でもなく、ただ主ご自身であることを再確認するのでした。自分を何者であるかのように思い違いをしてはいけません、聖い主の前に出てひれ伏す者に、主の目は注がれるのです!

あなたは、もう古い自分に別れを告げましたか?古い価値観や、昔の生き方を捨てて、十字架を負い、ひたすらキリストについていっているでしょうか?◇しかし、私たちを勝利に導くのは、私達の熱心でも、献身でも、覚悟でもないのです。ただ万軍の主が、私たちの前を進み、私たちを勝利へと導いてくださるのです。◇この方を畏れ、この方の前に身を低くすることが、人生で一番大切なことです。

「あなたの足のはきものを脱げ。
 あなたの立っている場所は聖なる所である。」
 ヨシュア5章15節

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
 その恵みを待ち望む者に。」
 詩篇33章16-17節

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