2008年10月15日水曜日

第7回「罪と恵みの感染力」 7章1-26節

前回の箇所は、イスラエルの圧倒的な勝利で幕を閉じました。しかし、前回の箇所には、もう一つ重要なテーマがありました。それは「聖絶」です。主はこう言われました。「あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものを取って、イスラエルに災いをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない(18-19)」と。さてこの聖絶をめぐって、何が起こるのでしょうか?

今日の箇所でイスラエルは小国アイに敗北してしまいます。あの要塞都市エリコに勝利したイスラエルが、比べ物にならないほど小さなアイに完敗してしまったのです。しかもその負け方がいかにも情けなかった。聖書には「アイの民の前から逃げ(4)」「民の心はしなえ水のようになった(5)」とあります。まるでクマに遭遇した子犬が腰を抜かしてしまったようです。敗因は何だったのでしょうか?

一つはイスラエルの油断でしょう。日本のことわざにも「勝って兜(かぶと)の緒(お)をしめよ」とあります。本来ならば大勝利の後ほど気持ちを引き締めて、小さな戦いにも全力で立ち向かわなければいけなかったのです。しかし偵察隊は「2~3000人ぐらいで上れば十分でしょう。民を全部やって骨折らせるようなことはしないでください(3)」と進言したのです。そもそもそれが間違いの元でした。

人からのアドバイスは、時にいい加減なものです。かつてカナンを偵察した斥候もそうでした。彼らはカナンを過度に恐れ「私たちは攻めのぼれない。(敵の前で)自分たちがイナゴのように見えた(民13:31~33)」と民に悪く言いふらしました。そしてその時も、民の心はくじけて「水のように」なってしまいました。人の言葉にふりまわされてはいけません。なぜなら彼らは「恐れなくてもよいものを、過度に恐れさせ」「本当に恐れなければいけない時に、油断させる」からです。

しかし今回の最大の原因は「罪」にありました。アカンは本来「聖絶」すべき「外套」を自分のものとし、「聖別」すべき「銀」や「金」を自分の家に隠し持っていたのです。きっとそれらを見ているうちに、どうしても欲しくなり、ついつい取ってしまったのでしょう(創3:5)。でもそれは立派な「罪」でした。そしてその代償は高く、彼の罪により、全イスラエルが甚大な被害をも被ってしまったのです。

あなたも「聖絶」「聖別」すべきものをもったいないと思っていないでしょうか。本来捨てるべき「古い習慣」や「悪い考え」「物」「偶像」などを捨てきれずにいるということはないでしょうか?同様に本来、主に献げるべき「什一献金」を惜しんで手元にとっておくことはないでしょうか?それもまた主の前には立派な盗みなのです。それにより、あなたも、あなたの属する共同体(家族や教会)も祝福を失ってしまいます。得をしようと思ったのに、実は更なる損を招いてしまうのです。

信仰を個人主義的に理解してはいないでしょうか?あなたの罪は、あなただけの問題ではありません。あなたの不従順と自己中心が、どれだけ、あなたの周りの人々にも悪い影響を与えていることでしょうか?◆それと同様に、あなたの従順と自己犠牲は、あなた自身はもちろんのこと、あなたの周りの人々にとっても大きな霊的祝福となっているのです。そして聖書の原則によれば「罪と死」よりも「恵みといのち」の感染力の方が強いのです!

また、賜物には、
罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。
さばきの場合は、
一つの違反のために罪に定められたのですが、
恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

もしひとりの違反により、
ひとりによって死が支配するようになったとすれば、
なおさらのこと、
恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、
ひとりのイエス・キリストにより、
いのちにあって支配するのです。
(ローマ5章16-17節)

0 件のコメント: