2008年10月14日火曜日

第6回 「エリコ陥落」 6章1-27節

今回の箇所は、いよいよ要塞都市エリコの陥落の箇所です。これによって、本格的なカナン征服の戦いの火ぶたが切って落とされます。その際の契約の民であるイスラエルの戦い方は、非常にユニークなものでした。なぜ主は、そのような方法をとられたのでしょうか?そこに秘められた意味は一体何なのでしょうか?

毎日一周、沈黙のうちに城壁の周りを行進し、七日目には七周せよ、それが主の命令でした。行列の先頭には武装した者たちがいましたが特に何をするわけでもなく、ただ契約の箱の前を進んでいる祭司たちが、時折、角笛を吹きならすぐらいでした。そんな行進に何の意味があるのでしょう?見た目には、まったくナンセンスです。もしも城壁の上から矢でも射られたら、どうなってしまうのでしょうか?

しかしそれが彼らにとって最も大切な訓練だったのです。荒野において彼らの親は、度々ひどく神様とモーセに不平を洩らし(民11:1)、何度も痛い思いをしながら、それでもつぶやくことをやめず、ついには約束の地カナンに入れなくなってしまいました(民14:30)。彼らに限らず人間にとって一番難しいのは、自分の舌を制することです(ヤコ3:8)。その子の世代までもが、同じ過ちを犯さないためにも、彼らは黙って主を待ち、主に信頼することを、学ばなければならなかったのです。

それは簡単なことではありません。「負け犬ほど良く吠える」と言いますが、私たちは「恐れ」を感じるときほど「声が大きく」「多弁に」なってしまうものです。でも主は「あなたの道をわたしにゆだねよ。わたしに信頼せよ。わたしが成し遂げる。わたしの前に静まり、耐え忍んでわたしを待て(詩37:5,7)」と言われるのです。彼らの内にも「こんなことをして何になる」との疑問が湧いてきたことでしょう。しかし彼らはその疑問を「祈り」に変え、黙々と行進を続けたのです。

七日目、角笛が鳴り響き、民が「時の声」をあげた時、城壁は崩れ去りました。まさに「権力によらず、能力によらず、神の霊によって(ゼカ4:6)」の勝利です。そのあり様を見て一番驚いたのは、彼ら自身であったでしょう。そして彼らは、町に攻め入り「男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した(21)」のです。ただし一つだけ例外がありました。それは、あのイスラエルの斥候をかくまった、ラハブとその家族です。彼らだけは救われたのです。

「聖絶」は、倫理的にではく、霊的・終末的に解釈されるべきです。世の終わりのラッパが鳴り渡る時、この世のすべてのものは「聖絶」されます。ただし例外があります。それは生前にイエス様の血潮によって罪赦され、霊的なイスラエルに加えられていた「選びの民(マタイ24:31)」です。彼らは、その滅びから免れて、永遠の安息に入るのです。しかし、その他のものは、永遠の炎に焼かれるのです(24)。

あなたはもう罪赦され、霊的なイスラエルに加えられているでしょうか?ラッパの音が鳴り響いたら、あなたはラハブとその家族のように救い出される確信があるでしょうか?◆それと同時に、私たちの周りには、まるでエリコのように心の堅く閉ざし、拒絶という城壁を張り巡らせている人々がいます。彼らのために私たちができることはなんでしょうか?◆多弁に福音を語っても恐らく逆効果でしょう。そんな時は謙遜に愛をもって祈り続けるしかありません。途中こんなことをしていても意味がないと感じることがあるかもしれません。それでも忍耐強く祈り続けるのです。時が満ちると必ず城壁は崩れます。その時、一番驚くのはあなた自身でしょう。あっと驚くような主の御業が起こるのですから!

信仰によって、
人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、
その城壁はくずれ落ちました。
信仰によって、
遊女ラハブは、偵察に来た人たちを
穏やかに受け入れたので、
不従順な人たちといっしょに
滅びることを免れました。
(へブル11章30-31節)

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