2008年9月2日火曜日

第3回「ヨルダン渡河」 ヨシュア3章1-17節

今日の箇所は、イスラエルの民がいよいよカナンへと入って行く記念すべき箇所です。全ての準備は整えられ、エリコの敵は恐れおののいていました。しかし目の前には、一つの障害が横たわっていました。それは増水したヨルダン川でした。この濁流を渡ることは、彼らにとって、大切な信仰のレッスンを含んでいました。

まず主は、イスラエルが「契約の箱の後ろを進まなければならない」と命じられました。なぜでしょうか?それは彼らが「今まで通ったことのない道(4)」を行こうとしていたからです。もし彼らがその道を自分勝手に進むなら、どんなに綿密に計画えおたて、気候や水深を調べたとしても、彼らは失敗してしまったでしょう。彼らはカナンという全く違った信仰と習慣を持つ人々の間に入っていく前に、自分の策略をむなしくし、徹底的に主に従うことを学ばなければならなかったのです。

「契約の箱の後ろを進む」とは、私たちにとって何を意味するのでしょうか?それは「主のことば」を第一にするということでしょう。それは単に毎日聖書を読めばいいということではありません。深い交わりの中で「主の臨在の中を進み行くこと」が大切だということです。「神の国とその義とを第一に求める」とは、全身全霊で主の御心を探り求め、それを生活の中心に据えるということなのです。あたかも、イエスラエルの民が、雲の柱が進めば進み、留まれば一ヶ月でも、一年でも留まったように、徹底的に主に従うことが、私たちにとっても大切なのです。

また主は「身をきよめなさい」とも命じられました。「あす主が、あなた方のうちで不思議を行われるから(4)」です。この「聖さ」こそイスラエルの特徴であり「いのち」でした。新約聖書にはこうあります「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ誰も主を見ることができません(ヘブル12:14)」と。もしこの聖さを失うなら、彼らは霊的ないのちを失い、主の不思議を体験することも、栄光を拝することも出来なくなってしまうのです。聖い主は、聖い者を愛されるのです。

そして、いよいよヨルダン渡河です。この時期のヨルダン川は、雪解け水や、春の雨で、一年で最も増水していました。なぜ主は、よりによってこの時期を選ばれたのでしょうか?それは、イスラエルの民が、「主こそ神である」ことを、今一度はっきりと体験的に知るためであり、それと同時に、「主が、モーセと共にいたように、ヨシュアとも共にいることを(7)」彼らが知るためでありました。だからこそ今回の出来事は、あの出エジプトの紅海横断と、非常に似ているのです。

ヨルダン川の水は、祭司の足が「水ぎわに浸ったとき」にせき止められました。非常に印象的な、まるでスローモーションを見ているかのような描写です。そしてここにこそ「信仰とは何か」という大切なテーマが含まれているのです。確かに奇跡は主の一方的な恵みによります。しかし同時に、不確かさの中で、主のことばにひたすら従う「勇気あるしもべ」を通して行われるのです。カナの婚礼においてもそうでした(ヨハネ2)。信仰とは単なる知識ではなく、行いを伴うものなのです。

あなたにとってのヨルダン川は何でしょうか?仕事におけるトラブルや人間関係、夫婦や家族の問題でしょうか?それとも老いや病、愛する者の死でしょうか?それらはまるで増水したヨルダン川のように、私達を飲み尽くそうとします。◇しかしその中にあっても、聖く、主に従い続ける者は幸いです。なぜならその人は、その只中にあって、主の不思議を体験するからです。

「あなたがたの身をきよめなさい。
あす、主が、あなたがたのうちで
不思議を行なわれるから。」
(ヨシュア3章5節)

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