前回の箇所で、屈辱的な敗北を帰してしまったイスラエル、失敗や敗北は誰にでもあるものです。私たちは完全無欠の神ではないのですから…。大切なのは「その後」です。ある人は一度つまずくとずるずると落ちてしまい、なかなか這い上がってくることができません。でもある人はしばらくの間、苦しんでも、また這い上がり勝利するのです。その違いは、いったいどこから来るのでしょうか?
敗北が勝利に変えられる、その第一歩は「悔い改め」です。徹底的な「悔い改め」なくして「新たな一歩」もありません。イスラエルは、アカンを民の中から除きました。それは、すべての責任をアカンに背負わせたということではなく、彼ら自身もまた、徹底的な悔い改めをしたということです。悔い改めとは「自分の心の中からもアカンを取り除くこと」です。誰の心の中にもアカンをいるのですから。
その上で主はヨシュアにもう一度語られました。「恐れてはならない。おののいてはならない(1)」と。それはヨシュアがモーセの後継者に任命された直後、主が語られたのと同じ言葉でした。私たちの信仰の焦点がズレてしまうとき、私たちは、畏れるべきお方を畏れることができず、恐れなくてもよいものを恐れてしまうのです。もしかしたらヨシュアもそんな状態だったのかもしれません(7:7)。そこで主はこう語ることによって、彼に「初心」と「信仰」を取り戻させたのです。
今回の勝利には大きく三つの要因がありました。第一に彼らが「戦う民全部を連れてアイに攻め上った(1)」ことです。前回は「2~3千人ぐらい上らせれば楽勝」という雰囲気がありましたが(7:3)今回は一切の油断なく最初から全力で攻め上りました。第二に「最後まで伸ばした槍を引っ込めなかった(26)」ことです。それは「わたしがアイをあなたの手に渡すから(18)」と言われた、主の言葉に踏みとどまることを意味していました。最初から最後まで全く隙がありませんでした。
そして最後に「主への従順」です。いっけん今回の戦いは、エリコの場合とは違うように思えます。エリコの時は城壁の周りを沈黙のうちに七日間回るという、それこそ100パーセントの従順によって勝ち取った勝利でしたが、アイの場合は、町の背後に伏兵をしのばせるという「人間的な策略」に勝利したようにも見えるからです。しかし決してそんなことはありません!聖書を読めばわかるように、これはヨシュアの知恵ではなく、100パーセント神様からの知恵でした(1‐2)。イスラエルはただそれに100パーセント従ったので、勝利することができたのです。
一方、前回の愚かさは、今回のアイに見られます。アイの王は前回の勝利に酔いしれていました。そしてイスラエル軍が攻めてくると聞いても、自分たちの優勢を信じて疑わなかったのです。おそらく本当に「(イスラエルは)我々の前から逃げていく、前と同じことだ(6)」と信じていたのでしょう。しかし、その油断が命取りとなりました。アイの町はイスラエルの伏兵に襲われ、気づいた時には、煙が天まで上っていたのです(20)。逃げ場を失った民は全滅させられてしまいました。
こうして見てくると、勝利を阻むのは「油断」であることがわかります。世の中においてもそうですが、信仰の世界においても「昨日の勝者が、今日の敗者(失格者)」ということはあるのです。◆最後に「勝利者」と呼ばれるのは誰でしょう。それは誰にも分かりません。◆ただ言えるのは、ひたすら主を畏れ、最後の最後までヨシュアが槍の手を引っ込めなかったように、祈りの手を下さなかった者、その者が勝利者だということです。過去の勝利に酔いしれて、ふと振り返ったら煙が上っていた…、そんなことのないように。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。
(Ⅰコリント9章27節)
それでも Anyway
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時々
さみしくなるよ
どうして 心が通じないのかな
どうして 信じてもらえないのかな
そんな時は この10ヶ条を読みたくなる
この 悲しみに 負けてしまわないように
それでも 人を愛することが
できますように
1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しな...
8 年前