2008年10月25日土曜日

第8回「勝利の秘訣」8章1-29節

前回の箇所で、屈辱的な敗北を帰してしまったイスラエル、失敗や敗北は誰にでもあるものです。私たちは完全無欠の神ではないのですから…。大切なのは「その後」です。ある人は一度つまずくとずるずると落ちてしまい、なかなか這い上がってくることができません。でもある人はしばらくの間、苦しんでも、また這い上がり勝利するのです。その違いは、いったいどこから来るのでしょうか?

敗北が勝利に変えられる、その第一歩は「悔い改め」です。徹底的な「悔い改め」なくして「新たな一歩」もありません。イスラエルは、アカンを民の中から除きました。それは、すべての責任をアカンに背負わせたということではなく、彼ら自身もまた、徹底的な悔い改めをしたということです。悔い改めとは「自分の心の中からもアカンを取り除くこと」です。誰の心の中にもアカンをいるのですから。

その上で主はヨシュアにもう一度語られました。「恐れてはならない。おののいてはならない(1)」と。それはヨシュアがモーセの後継者に任命された直後、主が語られたのと同じ言葉でした。私たちの信仰の焦点がズレてしまうとき、私たちは、畏れるべきお方を畏れることができず、恐れなくてもよいものを恐れてしまうのです。もしかしたらヨシュアもそんな状態だったのかもしれません(7:7)。そこで主はこう語ることによって、彼に「初心」と「信仰」を取り戻させたのです。

今回の勝利には大きく三つの要因がありました。第一に彼らが「戦う民全部を連れてアイに攻め上った(1)」ことです。前回は「2~3千人ぐらい上らせれば楽勝」という雰囲気がありましたが(7:3)今回は一切の油断なく最初から全力で攻め上りました。第二に「最後まで伸ばした槍を引っ込めなかった(26)」ことです。それは「わたしがアイをあなたの手に渡すから(18)」と言われた、主の言葉に踏みとどまることを意味していました。最初から最後まで全く隙がありませんでした。

そして最後に「主への従順」です。いっけん今回の戦いは、エリコの場合とは違うように思えます。エリコの時は城壁の周りを沈黙のうちに七日間回るという、それこそ100パーセントの従順によって勝ち取った勝利でしたが、アイの場合は、町の背後に伏兵をしのばせるという「人間的な策略」に勝利したようにも見えるからです。しかし決してそんなことはありません!聖書を読めばわかるように、これはヨシュアの知恵ではなく、100パーセント神様からの知恵でした(1‐2)。イスラエルはただそれに100パーセント従ったので、勝利することができたのです。

一方、前回の愚かさは、今回のアイに見られます。アイの王は前回の勝利に酔いしれていました。そしてイスラエル軍が攻めてくると聞いても、自分たちの優勢を信じて疑わなかったのです。おそらく本当に「(イスラエルは)我々の前から逃げていく、前と同じことだ(6)」と信じていたのでしょう。しかし、その油断が命取りとなりました。アイの町はイスラエルの伏兵に襲われ、気づいた時には、煙が天まで上っていたのです(20)。逃げ場を失った民は全滅させられてしまいました。

こうして見てくると、勝利を阻むのは「油断」であることがわかります。世の中においてもそうですが、信仰の世界においても「昨日の勝者が、今日の敗者(失格者)」ということはあるのです。◆最後に「勝利者」と呼ばれるのは誰でしょう。それは誰にも分かりません。◆ただ言えるのは、ひたすら主を畏れ、最後の最後までヨシュアが槍の手を引っ込めなかったように、祈りの手を下さなかった者、その者が勝利者だということです。過去の勝利に酔いしれて、ふと振り返ったら煙が上っていた…、そんなことのないように。

私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。
(Ⅰコリント9章27節)

2008年10月15日水曜日

第7回「罪と恵みの感染力」 7章1-26節

前回の箇所は、イスラエルの圧倒的な勝利で幕を閉じました。しかし、前回の箇所には、もう一つ重要なテーマがありました。それは「聖絶」です。主はこう言われました。「あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものを取って、イスラエルに災いをもたらさないためである。ただし、銀、金、および青銅の器、鉄の器はすべて、主のために聖別されたものだから、主の宝物倉に持ち込まなければならない(18-19)」と。さてこの聖絶をめぐって、何が起こるのでしょうか?

今日の箇所でイスラエルは小国アイに敗北してしまいます。あの要塞都市エリコに勝利したイスラエルが、比べ物にならないほど小さなアイに完敗してしまったのです。しかもその負け方がいかにも情けなかった。聖書には「アイの民の前から逃げ(4)」「民の心はしなえ水のようになった(5)」とあります。まるでクマに遭遇した子犬が腰を抜かしてしまったようです。敗因は何だったのでしょうか?

一つはイスラエルの油断でしょう。日本のことわざにも「勝って兜(かぶと)の緒(お)をしめよ」とあります。本来ならば大勝利の後ほど気持ちを引き締めて、小さな戦いにも全力で立ち向かわなければいけなかったのです。しかし偵察隊は「2~3000人ぐらいで上れば十分でしょう。民を全部やって骨折らせるようなことはしないでください(3)」と進言したのです。そもそもそれが間違いの元でした。

人からのアドバイスは、時にいい加減なものです。かつてカナンを偵察した斥候もそうでした。彼らはカナンを過度に恐れ「私たちは攻めのぼれない。(敵の前で)自分たちがイナゴのように見えた(民13:31~33)」と民に悪く言いふらしました。そしてその時も、民の心はくじけて「水のように」なってしまいました。人の言葉にふりまわされてはいけません。なぜなら彼らは「恐れなくてもよいものを、過度に恐れさせ」「本当に恐れなければいけない時に、油断させる」からです。

しかし今回の最大の原因は「罪」にありました。アカンは本来「聖絶」すべき「外套」を自分のものとし、「聖別」すべき「銀」や「金」を自分の家に隠し持っていたのです。きっとそれらを見ているうちに、どうしても欲しくなり、ついつい取ってしまったのでしょう(創3:5)。でもそれは立派な「罪」でした。そしてその代償は高く、彼の罪により、全イスラエルが甚大な被害をも被ってしまったのです。

あなたも「聖絶」「聖別」すべきものをもったいないと思っていないでしょうか。本来捨てるべき「古い習慣」や「悪い考え」「物」「偶像」などを捨てきれずにいるということはないでしょうか?同様に本来、主に献げるべき「什一献金」を惜しんで手元にとっておくことはないでしょうか?それもまた主の前には立派な盗みなのです。それにより、あなたも、あなたの属する共同体(家族や教会)も祝福を失ってしまいます。得をしようと思ったのに、実は更なる損を招いてしまうのです。

信仰を個人主義的に理解してはいないでしょうか?あなたの罪は、あなただけの問題ではありません。あなたの不従順と自己中心が、どれだけ、あなたの周りの人々にも悪い影響を与えていることでしょうか?◆それと同様に、あなたの従順と自己犠牲は、あなた自身はもちろんのこと、あなたの周りの人々にとっても大きな霊的祝福となっているのです。そして聖書の原則によれば「罪と死」よりも「恵みといのち」の感染力の方が強いのです!

また、賜物には、
罪を犯したひとりによる場合と違った点があります。
さばきの場合は、
一つの違反のために罪に定められたのですが、
恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。

もしひとりの違反により、
ひとりによって死が支配するようになったとすれば、
なおさらのこと、
恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、
ひとりのイエス・キリストにより、
いのちにあって支配するのです。
(ローマ5章16-17節)

2008年10月14日火曜日

第6回 「エリコ陥落」 6章1-27節

今回の箇所は、いよいよ要塞都市エリコの陥落の箇所です。これによって、本格的なカナン征服の戦いの火ぶたが切って落とされます。その際の契約の民であるイスラエルの戦い方は、非常にユニークなものでした。なぜ主は、そのような方法をとられたのでしょうか?そこに秘められた意味は一体何なのでしょうか?

毎日一周、沈黙のうちに城壁の周りを行進し、七日目には七周せよ、それが主の命令でした。行列の先頭には武装した者たちがいましたが特に何をするわけでもなく、ただ契約の箱の前を進んでいる祭司たちが、時折、角笛を吹きならすぐらいでした。そんな行進に何の意味があるのでしょう?見た目には、まったくナンセンスです。もしも城壁の上から矢でも射られたら、どうなってしまうのでしょうか?

しかしそれが彼らにとって最も大切な訓練だったのです。荒野において彼らの親は、度々ひどく神様とモーセに不平を洩らし(民11:1)、何度も痛い思いをしながら、それでもつぶやくことをやめず、ついには約束の地カナンに入れなくなってしまいました(民14:30)。彼らに限らず人間にとって一番難しいのは、自分の舌を制することです(ヤコ3:8)。その子の世代までもが、同じ過ちを犯さないためにも、彼らは黙って主を待ち、主に信頼することを、学ばなければならなかったのです。

それは簡単なことではありません。「負け犬ほど良く吠える」と言いますが、私たちは「恐れ」を感じるときほど「声が大きく」「多弁に」なってしまうものです。でも主は「あなたの道をわたしにゆだねよ。わたしに信頼せよ。わたしが成し遂げる。わたしの前に静まり、耐え忍んでわたしを待て(詩37:5,7)」と言われるのです。彼らの内にも「こんなことをして何になる」との疑問が湧いてきたことでしょう。しかし彼らはその疑問を「祈り」に変え、黙々と行進を続けたのです。

七日目、角笛が鳴り響き、民が「時の声」をあげた時、城壁は崩れ去りました。まさに「権力によらず、能力によらず、神の霊によって(ゼカ4:6)」の勝利です。そのあり様を見て一番驚いたのは、彼ら自身であったでしょう。そして彼らは、町に攻め入り「男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した(21)」のです。ただし一つだけ例外がありました。それは、あのイスラエルの斥候をかくまった、ラハブとその家族です。彼らだけは救われたのです。

「聖絶」は、倫理的にではく、霊的・終末的に解釈されるべきです。世の終わりのラッパが鳴り渡る時、この世のすべてのものは「聖絶」されます。ただし例外があります。それは生前にイエス様の血潮によって罪赦され、霊的なイスラエルに加えられていた「選びの民(マタイ24:31)」です。彼らは、その滅びから免れて、永遠の安息に入るのです。しかし、その他のものは、永遠の炎に焼かれるのです(24)。

あなたはもう罪赦され、霊的なイスラエルに加えられているでしょうか?ラッパの音が鳴り響いたら、あなたはラハブとその家族のように救い出される確信があるでしょうか?◆それと同時に、私たちの周りには、まるでエリコのように心の堅く閉ざし、拒絶という城壁を張り巡らせている人々がいます。彼らのために私たちができることはなんでしょうか?◆多弁に福音を語っても恐らく逆効果でしょう。そんな時は謙遜に愛をもって祈り続けるしかありません。途中こんなことをしていても意味がないと感じることがあるかもしれません。それでも忍耐強く祈り続けるのです。時が満ちると必ず城壁は崩れます。その時、一番驚くのはあなた自身でしょう。あっと驚くような主の御業が起こるのですから!

信仰によって、
人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、
その城壁はくずれ落ちました。
信仰によって、
遊女ラハブは、偵察に来た人たちを
穏やかに受け入れたので、
不従順な人たちといっしょに
滅びることを免れました。
(へブル11章30-31節)

第5回 「戦いの直前に」 5章1-15節

今回はエリコの戦の直前の箇所です。このような時に、イスラエルは「割礼」と「過越しの祝い」を行いました。一つ間違えば非常に危険です。傷が痛んでいるところを奇襲されてしまうかもしれません。祝っている隙に、攻め込まれてしまうかもしれません。なぜ、この二つがそれほど重要だったのでしょうか…?

主はヨシュアに、「もう一度、イスラエルに割礼をせよ」と命じられました。彼らは、エジプトを出て以来40年以上も割礼を受けていなかったのです。その40年の間に、出エジプト第一世代は、自らの不信のために死に絶え、荒野で生まれた子供達だけが生き残っていたのです(4-6)。おそらくヨシュアとカレブ以外の者は、誰も割礼を受けていなかったことのでしょう。彼らは大切な何かを失っていました。

それはイスラエル民族のアイデンティティーです。アブラハム以来、イスラエルに属する男子は、奴隷も在留異国人も皆、この割礼を受けなければなりませんでした(創世記17:10)。それによって彼らは、自分達こそがアブラハムに与えられた契約の「正当な継承者」であることを確認していたのです。その契約とは「約束の地カナンにおいて、自分達の子孫は星の数ほどに増え広がる」ことでした。

またこの割礼は「過去との決別」を意味していました。彼らは「割礼」によって忌まわしい過去と決別し(9)、カナンの地でとれた麦で作った「種無しパン」を食べ、もう後ろを振り向かない、この地で生きていくと覚悟を決めたのです。その翌日からマナが止みました。割礼が文字通り新しい時代の「皮切り」となったのです。

私たちにとっての「割礼」とは何でしょうか?それは「洗礼」のことです。単なる儀式としての洗礼ではなく、古い自分をことごとく十字架につけ、キリストの復活の命に預かったしるしとしての洗礼が大切なのです。これを「新しい創造」「新生」と呼びます。この新生を経験するためには、古い自分をしっかり切り捨てなければいけないのです。もし中途半端に切り落とすなら、余計に傷口が傷むのです(8)。

また私たちにとっての「過ぎ越し」とは何でしょうか?それは「聖餐式」です。私達は聖餐式で、キリストのからだを食し、キリストの血を飲みます。それによって、十字架の恵みにより救われ「永遠のいのち(新しい契約)」の継承者とされていることを感謝するのです。と同時に、聖餐式において私達は「もう後ろを振り向かない」「死に至るまでも、キリストに忠実であること」を誓っているのです。反対に言えば、その覚悟が無い者は、本来、聖餐式にはふさわしくないのです。

最後に、大きな戦いの前にこそ「砕かれ」「へりくだる」必要があります。ヨシュアは主の将の前で、はきものを脱いでひれ伏しました。それにより彼は、この戦いを勝利に導くのは、自分の能力や力ではなく、イスラエルの軍勢でもなく、ただ主ご自身であることを再確認するのでした。自分を何者であるかのように思い違いをしてはいけません、聖い主の前に出てひれ伏す者に、主の目は注がれるのです!

あなたは、もう古い自分に別れを告げましたか?古い価値観や、昔の生き方を捨てて、十字架を負い、ひたすらキリストについていっているでしょうか?◇しかし、私たちを勝利に導くのは、私達の熱心でも、献身でも、覚悟でもないのです。ただ万軍の主が、私たちの前を進み、私たちを勝利へと導いてくださるのです。◇この方を畏れ、この方の前に身を低くすることが、人生で一番大切なことです。

「あなたの足のはきものを脱げ。
 あなたの立っている場所は聖なる所である。」
 ヨシュア5章15節

「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。
 その恵みを待ち望む者に。」
 詩篇33章16-17節