2008年9月13日土曜日

第4回 「記念の石」 4章1-24節

ヨルダン渡河の出来事は、二章にも渡って大変細かく記録されています。そのことからも、この事実が、今後のイスラエルにとって、いかに重要であるかが伺えます。またその描写は大変印象的です。川の水がせき止められたのは、祭司の足が、ヨルダン川に浸ったその時でした(3:15)。そしてその祭司の足の裏が、かわいた地に上がった時(4:18)、ヨルダン川の水は、怒涛のごとく押し寄せたのです。

この奇跡には二つの重要な意味がありました。それはまず、イスラエルの民だけでなく「地のすべての民が、主の御手は強いことを知り、主を畏れるため(24)」でした。また同時に、全イスラエルが見ている前でこれを行われることにより、彼らがモーセを恐れたようにヨシュアも一生の間恐れるため(14)でした。「神を恐れ」「指導者を尊ぶ」、この二つを確認することにより、神様はイスラエルの民がカナンに入る前に、今一度、この国の土台を、その基礎から固められたのです。

それは、一過性のものであってはいけませんでした。人間というのは、主の圧倒的な恵みを経験しても、放っておけばまたすぐに忘れてしまうものなのです。荒野でのイスラエルの民がそのことを証明しています。そこで主は、彼らが子々孫々に渡るまで、このヨルダンの奇跡を忘れないために、イスラエルの中から12人を選び出し、川の真中にあった12の石を集めさせ、永遠の記念碑を築いたのです。

この12人全員が力を合わせたというのが、大切なのです。「主を恐れ、主に立てられた指導者を尊ぶこと」が国の土台でありました。しかしその土台の上に、どのような「国(共同体)」を築いていくかは、イスラエル12部族の共同作業なのです。自分勝手にならず、私利私欲を求めず、互いにいたわり合い、愛の絆で結び合わされていくときに、本当に立派な国が出来上がり、その栄光が輝くのです。

教会も同じです。「神を恐れ」と「御言葉の器を尊ぶことこと」は教会の基礎です。でももっと大切な「土台」「礎石」があります。それはイエス・キリストご自身です。人はこのお方を捨て十字架につけて殺しました。しかしこの赤く染まった十字架こそ、私たちが永遠に語り継ぐべき「恵みの記念碑」なのです。私達はこのお方の恵みの御手によって、ヨルダンという、罪の濁流から救い出されました!

この恵みを土台として、私達は、霊的な家(共同体)を立て上げます。12部族が協力して、石を積み上げ、記念碑を築いたように、私たちも、自分自身を救い出された一つの石として差出し、共に立て上げられ、一つの聖なる共同体(教会)を築き上げていくのです!自分なんか・・・と思う人がいるかもしれません。しかし、あなたがいなくなったら、その家は崩れてしまうのです。あなたが必要なのです。

あなたは神の家の中でどんな石でしょか?人目につく大理石の床でしょうか? 雨風にさらされる壁の石でしょうか?それとも太陽に熱せられる屋根の石でしょうか?◆働きには違いがあります。それでよいのです。みなが同じではありません。床も屋根も壁もみんな大切です。しかしイエス様は地中の「礎石」となられたことを忘れてはいけません。この方の愛がバラバラな石を一つにするのです。

キリスト・イエスご自身(こそ)がその礎石です。
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、
御霊によって神の御住まいとなるのです。
(エペソ2章20,22節 抜粋)

2008年9月2日火曜日

第3回「ヨルダン渡河」 ヨシュア3章1-17節

今日の箇所は、イスラエルの民がいよいよカナンへと入って行く記念すべき箇所です。全ての準備は整えられ、エリコの敵は恐れおののいていました。しかし目の前には、一つの障害が横たわっていました。それは増水したヨルダン川でした。この濁流を渡ることは、彼らにとって、大切な信仰のレッスンを含んでいました。

まず主は、イスラエルが「契約の箱の後ろを進まなければならない」と命じられました。なぜでしょうか?それは彼らが「今まで通ったことのない道(4)」を行こうとしていたからです。もし彼らがその道を自分勝手に進むなら、どんなに綿密に計画えおたて、気候や水深を調べたとしても、彼らは失敗してしまったでしょう。彼らはカナンという全く違った信仰と習慣を持つ人々の間に入っていく前に、自分の策略をむなしくし、徹底的に主に従うことを学ばなければならなかったのです。

「契約の箱の後ろを進む」とは、私たちにとって何を意味するのでしょうか?それは「主のことば」を第一にするということでしょう。それは単に毎日聖書を読めばいいということではありません。深い交わりの中で「主の臨在の中を進み行くこと」が大切だということです。「神の国とその義とを第一に求める」とは、全身全霊で主の御心を探り求め、それを生活の中心に据えるということなのです。あたかも、イエスラエルの民が、雲の柱が進めば進み、留まれば一ヶ月でも、一年でも留まったように、徹底的に主に従うことが、私たちにとっても大切なのです。

また主は「身をきよめなさい」とも命じられました。「あす主が、あなた方のうちで不思議を行われるから(4)」です。この「聖さ」こそイスラエルの特徴であり「いのち」でした。新約聖書にはこうあります「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ誰も主を見ることができません(ヘブル12:14)」と。もしこの聖さを失うなら、彼らは霊的ないのちを失い、主の不思議を体験することも、栄光を拝することも出来なくなってしまうのです。聖い主は、聖い者を愛されるのです。

そして、いよいよヨルダン渡河です。この時期のヨルダン川は、雪解け水や、春の雨で、一年で最も増水していました。なぜ主は、よりによってこの時期を選ばれたのでしょうか?それは、イスラエルの民が、「主こそ神である」ことを、今一度はっきりと体験的に知るためであり、それと同時に、「主が、モーセと共にいたように、ヨシュアとも共にいることを(7)」彼らが知るためでありました。だからこそ今回の出来事は、あの出エジプトの紅海横断と、非常に似ているのです。

ヨルダン川の水は、祭司の足が「水ぎわに浸ったとき」にせき止められました。非常に印象的な、まるでスローモーションを見ているかのような描写です。そしてここにこそ「信仰とは何か」という大切なテーマが含まれているのです。確かに奇跡は主の一方的な恵みによります。しかし同時に、不確かさの中で、主のことばにひたすら従う「勇気あるしもべ」を通して行われるのです。カナの婚礼においてもそうでした(ヨハネ2)。信仰とは単なる知識ではなく、行いを伴うものなのです。

あなたにとってのヨルダン川は何でしょうか?仕事におけるトラブルや人間関係、夫婦や家族の問題でしょうか?それとも老いや病、愛する者の死でしょうか?それらはまるで増水したヨルダン川のように、私達を飲み尽くそうとします。◇しかしその中にあっても、聖く、主に従い続ける者は幸いです。なぜならその人は、その只中にあって、主の不思議を体験するからです。

「あなたがたの身をきよめなさい。
あす、主が、あなたがたのうちで
不思議を行なわれるから。」
(ヨシュア3章5節)